丸善日本橋で高橋孝之、寺田豊ら「着物と帯」展、下山が染料解説

【銀座新聞ニュース=2018年3月14日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は3月14日から20日まで3階ギャラリーで「草木染のきものと帯展2-日本の色 奇跡の色」を開いている。

丸善・日本橋店で3月20日まで開かれる「草木染のきものと帯展2-日本の色 奇跡の色」に出品される着物のイメージ。

2015年10月に京都でもっとも古い、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ、通称・上賀茂神社=かみがもじんじゃ、京都府京都市北区上賀茂本山339、075-781-0011)の第42回式年遷宮(しきねんせんぐう)に寄せて、二葉葵染絹糸五色、二葉葵染絞り几帳(きちょう)、二葉葵墨染 点描と稿手描き、二葉葵箔型染め額、二葉葵染紋様刺しゅう額、二葉葵染爪掻本綴織帛紗(ふたばあおいぞめ・つめかきほんつづれおり・ふくさ)、二葉葵染うね織変化角帯など6人の作家が二葉葵の染料で染上げた作品を奉納した。

今回は、賀茂別雷神社の第42回式年遷宮に寄せて、奉納した6人のうち4人と、新たに参加した2人(組)の計6人の作家による草木染めの着物、帯などを展示販売する。

出品するのは工房「染の高孝」を主宰する高橋孝之(たかはし・たかゆき)さん、染織作家の上原晴子(うえはら・はるこ)さん、「服部綴工房」を主宰する服部秀司(はっとり・ひでし)さん、4代目京絞り作家の寺田豊(てらだ・ゆたか)さんと、白鷹織製造問屋の「株式会社東北出羽屋」(山形県)、「夢訪庵 桝藏」を主宰する桝蔵順彦(ますくら・ゆきひこ)さんだ。

高橋孝之さんは1966年に戸塚工芸社に入社、父親より引き染ぼかしと一珍染、兄から江戸更紗を習得し、1974年に独立して工房「染の高孝」を開く。1983年に染織作家グループ「新樹会」を設立、以後年1回、作品展を開き、本格的に作家活動に入る。

1984年に第9回日本染織新人展覧会で「青い光」が意匠賞(1985年に第10回で技術賞)、1989年に第27回日本染織作品展で「竹林2」が技術賞、「墨流し」が佳作(1990年に第28回で日経奨励賞)、第29回伝統工芸新作展で「群翔」が入選(1991年に第30回で入選)、1991年に第14回日本染織作家展で「彩流」が奨励賞、「源流」が佳作(1992年に第15回で京都新聞社賞、1993年に第16回で佳作、1996年に第19回で名古屋三越賞、1999年に第22回でセイコきもの文化財団賞、2001年に第24回で京都新聞社賞、2009年に第32回で京都市長賞、2012年に第35回で京都市長賞)。

1996年に第34回染芸展で「響き」が三越賞(1999年に第37回で三越賞、2000年に第38回で商工会議所会頭賞と高島屋、西武百貨店賞、2001年に第39回で国際モード協会賞、2002年に第40回で東京産業貿易協会会長賞、2003年に第41回で染芸展賞、2004年に第42回で東京都立産業技術研究所所長賞、2005年に第43回で国際モード協会賞、2006年に第44回で田島比呂子=たじま・ひろこ=賞、2010年に第48回で新宿区長賞といち居賞、日本きもの文化協会会長賞、世界文化社きものサロン賞、2012年に第50回でコスモス賞、新宿区長賞、松屋賞、第50回記念人間国宝山田貢(やまだ・みつぐ)賞。

1997年に東京都優秀技能章、2001年に新宿区地場産業25年表彰を受ける。2002年に東京都伝統工芸士に認定され、2007年に東京都工芸染色協同組合理事長に就任、2008年に国の伝統工芸士に認定され、現在、東京都染色工芸組合理事長。染色作家グループ「新樹会」会長。

上原晴子さんは京都府京都市生まれ、1983年に第38回新匠工芸会展で初入選、1984年に日本染織学園研究科を卒業、1989に第44回新匠工芸展で会友賞(1990年に第45回で新匠賞)、1991年に第20回日本伝統工芸近畿展で初入選(以後、毎年入選、1996年に第25回で奨励賞、2001年に第30回で京都府教育委員会教育長賞)。

1996年に第48回京展で日本経済新聞社賞、1997年に1997京都美術工芸展で優秀賞、1998年に第21回京都工芸美術作家協会展で奨励賞(2002年に第25回で第25回記念賞、2005年に第28回で京都府知事賞)、第45回日本伝統工芸展で初入選(以後、多数入選)、2001年に京都市芸術文化協会賞、2006年に第40回日本伝統工芸染織展で文化庁長官賞(2014年に第48回で日本経済新社賞)、2015年に上賀茂神社に二葉葵染め・角帯を奉献した。現在、日本工芸会正会員、京都工芸美術作家協会会員。

服部秀司さんは1958年京都府生まれ、同志社大学を卒業、河合玲(かわい・れい)デザイン研究所テキスタイルコースを修了、その後、服部綴工房に入り、爪掻綴織物(つめかきつづれおりもの)の制作に携わる。

寺田豊さんは1958年京都府京都市生まれ、1994年にフランス・パリ市主催フランスオートクチュール組合後援により「バガテル城美術館」の「燦功工房展」に招待出品、東京で個展を開催、1996年にフランス・パリ国立ギメ美術館が「雪に萩」を買い上げ、2002年に「布結人の会」を設立した。

イタリア・ミラノの美術学校と交流、2007年に歌舞伎役者の中村芝雀(なかむら・しばじゃく)さんの「人魚の恋椿」の衣装を制作し、2008年に京都絞工芸展で知事賞と近畿経済産業局長賞、源氏物語千年紀「夢浮橋」の几帳を作成している。

17日15時から16時まで吉備国際大学名誉教授で、デンマテリアル株式会社の色材科学研究所非破壊分析研究室の取締役技術顧問を務めている下山進(しもやま・すすむ)さんが「植物染料に宿る輝く力」と題してギャラリートークを開く。

下山進さんは古代染色物や浮世絵版画などに用いられていた染料や顔料などの色材調査、油彩画絵具の解析などを行っており、日本では平安時代以降、植物染料で染めた多彩な色彩名が登場し、化学染料では得られない、鮮やかで澄んだ光を放ち、その事実を現代の科学で解き明かし、その輝きを現代の化粧品に生かしている。

下山進さんは1945年群馬県館林市生まれ、1968年に東京理科大学理学部化学科を卒業、東京田辺製薬に入社、研究開発部に所属し、東京工業大学天然物化学研究施設への派遣研究員、1969年にイハラケミカル工業に入社、企画室主査、総務課長、秘書課長、研究開発部研究所次長、研究プロジェクトリーダーなどを歴任して、1992年にデンマテリアルに入社、色材科学研究所取締役研究所長、2001年に吉備国際大学社会学部文化財修復国際協力学科教授(2003年から2007年まで同学科長)。

2003年から2011年まで林原生物化学研究所参与、2005年から2012年まで吉備国際大学文化財総合研究センター・センター長、2005年から2014年まで同大学大学院文化財保存修復学研究科研究科長、文化財保存修復学研究科教授(兼任)、2007年から2015年まで同大学文化財学部教授、2011年から2015年まで同大学副学長、2003年から2016年まで同大学文化財総合研究センター研究員、2015年からデンマテリアル取締役技術顧問、2017年5月から吉備国際大学名誉教授を務めている。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)、入場は無料。トークは定員30人で、事前の予約(03-6214-2001)が必要。

注:「桝蔵順彦」の「蔵」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として現代漢字(常用漢字)を使用しています。

ピカデリー「曇天に笑う」、福士蒼汰、中山優馬ら舞台挨拶

 

【銀座新聞ニュース=2018年3月13日】国内映画業界第3位の松竹(中央区築地4-1-1、東劇ビル、03-5550-1533)は3月21日から丸の内ピカデリー(千代田区有楽町2-5-1、有楽町マリオン、03-3201-2881)で一般公開する「曇天に笑う」の初日に福士蒼汰さん、中山優馬さんらによる舞台あいさつを開く。

3月21日から一般公開される「曇天に笑う」」((C)映画「曇天に笑う」製作委員会 (C)唐々煙/マッグガーデン)。

21日9時の回上映終了後と12時15分の回上映前に、監督の本広克行(もとひろ・かつゆき)さんをはじめ、曇家第14代当主で長男「曇天火」役の福士蒼汰(ふくし・そうた)さん、曇家(曇神社)三兄弟の次男「曇空丸」役の中山優馬(なかやま・ゆうま)さん、右大臣直属部隊の隊長「安倍蒼世」役の古川雄輝(ふるかわ・ゆうき)さん、曇神社の居候「金城白子」役の桐山漣(きりやま・れん)さん、右大臣直属部隊の副隊長「鷹峰誠一郎」役の大東駿介(だいとう・しゅんすけ)さん。

曇天火の幼馴染「永山蓮」役の小関裕太(こせき・ゆうた)さん、右大臣直属部隊の隊員「武田楽鳥」役の市川知宏(いちかわ・ともひろ)さん、右大臣直属部隊の最年長隊員「犬飼善蔵」役の加治将樹(かじ・まさき)さん、曇家三兄弟の三男「曇宙太郎」役の若山耀人(わかやま・きらと)さんが舞台に登場してあいさつする。

「曇天に笑う」は「月刊コミックアヴァルス」(マッグガーデン)の2011年3月号から2013年6月号まで連載されたマンガ家の唐々煙(からからけむり)さんの同じ題名のマンガ作品が原作で、「家族愛」がテーマになっている。

2014年10月より12月まで日本テレビ系でアニメが放送され、2015年2月21日から3月1日まで、天王洲銀河劇場で舞台化され、2017年8月24日から9月3日までサンシャイン劇場で舞台化されている。

物語は明治維新後の滋賀県・大津が舞台で、300年に一度よみがえり、人間に災いをもたらすという大蛇(オロチ)が復活する年、曇神社を継ぐ曇家(くもうけ)の長男・曇天火、次男・空丸、三男・宙太郎の曇天三兄弟は、大蛇を封じるため立ち上がる。

一方、明治政府右大臣・岩倉具視(東山紀之=ひがしやま・のりゆき=さん)の直属部隊「犲(ヤマイヌ)」も、違った方法で大蛇の力を封印しようと動き出し、最強の忍者集団・風魔一族も大蛇の力による政府転覆を企んで暗躍し、曇天三兄弟と犲、風魔一族が三つ巴の戦いを繰り広げるという話だ。

ウイキペディアなどによると、本広克行さんは1965年香川県丸亀市生まれ、横浜放送映画専門学院(現日本映画学校)を卒業、電通テック、共同テレビを経て、「ベイシス」に入社、 1998年に「ロボット(ROBOT)」に移り、2013年から「株式会社プロダクション(Production)I.G」の企画部に所属している。

1992年にフジテレビ・共同テレビ制作のドラマ「悪いこと」で監督デビューし、その後、オムニバスドラマ「世にも奇妙な物語」の中の「見たら最期」を監督し、1996年に「7月7日、晴れ」で映画監督デビューした。「お金がない!」の演出陣の1人として織田裕二(おだ・ゆうじ)さんと知り合い、織田裕二さんの推薦により、1997年にフジテレビのプロデューサー、亀山千広(かめやま・ちひろ)さんが始めた「踊る大捜査線」のチーフ演出に抜擢された。

1998年から開始した映画「踊る大捜査線」シリーズで監督を務め、第22回と第27回日本アカデミー賞優秀監督賞を受賞し、シリーズ映画2作目では実写邦画興行成績の歴代1位を保持している。2005年に劇団ヨーロッパ企画の舞台を映画化した「サマータイムマシン・ブルース」、2006年にコメディ「ウドン(UDON)」などを監督している。2011年4月に四国学院大学客員教授、2012年10月にアニメ作品「サイコパス(PSYCHO-PASS)」の総監督を担当し、2006年から香川県の映画祭「さぬき映画祭」のディレクターを務めている。

チケットは先行抽選をチケットぴあを通じて発売中で14日11時締め切り。17日10時から一般発売する。料金は全席指定で2000円均一。

丸善丸の内でサイトウヤスヒロ展、心の中の風景

【銀座新聞ニュース=2018年3月13日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ内、03-5288-8881)は3月14日から20日まで4階ギャラリーでサイトウヤスヒロさんによる第12回個展を開く。

丸善丸の内でサイトウヤスヒロ展、心の中の風景

フランスに20年以上在住した後、帰国して国内で制作している洋画家のサイトウヤスヒロ(斎藤康広)さんは油絵具を薄く塗り重ねる手法で絵を描いており、フランス時代に住んでいた、わずか数戸の集落「ビットレー」や、日本への思いなど風景画を中心に描いている。

今回、サイトウヤスヒロさんは「親しい人たちは永遠の国にいます。彼らの輝きは地上にとどまって、その時間は消えることがなく私とともにあります。私には心に焼き付いているいくつかの景色があります。それらは優しかった人の姿と重なっています」とし、心の中に焼き付けた風景を描いた作品約30点を展示する。

サイトウヤスヒロさんは2007年から丸善・丸の内本店で個展を開いており、2011年の開催時には東日本大震災に遭遇しており、今回で12回目になる。

サイトウヤスヒロさんは1956年埼玉県所沢市生まれ、1981年に武蔵野美術大学造形学部油絵科を卒業、卒業時に優秀賞を受賞、1983年に同大学大学院美術科油絵コースを修了、修了時に卒業生選抜展に出展、1984年から1985年にフランス・パリのアカデミー・グラン・ショミエール美術学校(ACADEMIE DE LA GRANDE CHAUMIERE A PARIS)で学んだ。

1985年から1986年にパリ美術大学(ボ・ザール=BEAUX-ARTS DE PARIS)で美術解剖学を受講、1985年と1986年、1990年にル・サロン展(Societe des Artistes Franeais SALON)で入選、1987年、1991年から1994年、2001年にドートンヌ展(Salon D’AUTOMNE)で入選、とくに1991年にグランプリ3位を受賞、以降、毎年日本とフランスで個展を開いている。

開場時間は9時から21時(最終日は17時)まで。入場は無料。

大丸松坂屋画廊で北大路魯山人展

【銀座新聞ニュース=2018年3月12日】大手流通グループのJ.フロントリテイリング(中央区八重洲2-1-1)傘下の大丸松坂屋百貨店(江東区木場2-18-11)が運営するアートギャラリー「Artglorieux GALLERY OF TOKYO」(中央区銀座6-10-1、GINZA SIX、03-3572-8886)は3月21日まで「北大路魯山人の世界」を開いている。

「アールグロリュー ギャラリーオブトーキョー(Artglorieux GALLERY OF TOKYO)」で3月21日まで開催中の「北大路魯山人の世界」に展示されている作品「志野水指 共箱」。

書や篆刻(てんこく)、文筆、料理、陶芸などで才能を発揮した北大路魯山人(きたおおじ・ろさんじん、1883-1959)の作品を展示している。また、「アールグロリュー ギャラリーオブトーキョー(Artglorieux GALLERY OF TOKYO)」では、「芸術は、吾人の宇宙の生命を物語り、生気をもたらし、激励し発奮させる力である」という北大路魯山人の言葉を紹介している。

ウイキペディアによると、北大路魯山人は1883(明治16)年12月21日、父親・上賀茂神社の社家・北大路清操(きたおおじ・きよあや、せいそう)、母親・登女(とめ、社家・西池家の出身)の次男として生まれ、1869(明治2)年の版籍奉還の2年後の1871(明治4)年に今まで保証されてきた俸禄制と世襲制が廃止されため混乱期にあり、父親が東京に職を求めたり、京都に戻ったりという生活をしていたが、房次郎(魯山人)が生まれる4カ月前に自殺した(魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げた)。

母親は滋賀県滋賀郡坂本村(現:大津市坂本)の農家に房次郎を預け失踪した。しかし、家で房次郎は放置状態にあり、預けた1週間後、この農家を紹介した巡査の妻が連れて帰り、出生から5カ月後の1883(明治16)年9月6日、巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となる。しかし、この2カ月前の7月2日に服部巡査が行方不明になり、同年秋に巡査の妻が病死し、この2人の養子の夫婦が義理の弟である幼い房次郎の面倒を見ることになった。

同じく北大路魯山人の「赤呉須山路花入共箱」。

3歳の春、上賀茂神社の東側に拡がる神宮寺山を養姉に連れられて散歩をしている時、房次郎は「真っ赤な躑躅(つつじ)の咲き競う光景」を見た。房次郎はこの激しい色彩の渦を見て「美の究極」を感じ、自分は美とともに生きようと決心したという。そのころ義兄に精神異常が出てその後死亡した。1887年頃、房次郎が4、5歳の時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せる。この家で房次郎は義姉の母親から激しい虐待を受ける。

2、3カ月後、これを見かねた近所の人が上京区(現:中京区)竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人のところへ養子話を持ちかける。こうして房次郎は1889(明治22)年6月22日、福田房次郎となり、以後33歳までの約27年間、福田姓を名乗ることとなる。福田家では6歳の頃から炊事を買って出ることにより、炊事の中で味覚と料理の基本を学んでいく。

10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小、新町小)を卒業、春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ住み込みで出される。ある日奉公先の使い走りの最中、仕出し料理屋「亀政」(御池油小路西入ル森ノ木町)の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われる。その絵を描いたのは亀政の主人の長男で、のちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳(たけうち・せいほう、1864-1942)であった。

1896年1月に奉公を辞め、養父母に画学校の進学を頼み込むも、家計的な問題もあり断念し、養父の木版の手伝いを始め、扁額(へんがく)や篆刻(てんこく)などの基礎的な感覚を身に着け、一字書の書道コンクールで初の応募で天の位1枚・地の位1枚・佳作1枚を受賞した。応募を続け、次々と受賞し、14、5歳には稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始め、このころ西洋看板描きとしても活躍した。

20歳の時、縫箔屋の主人が房次郎の従兄と名乗って現れ、母の所在を知り、東京に会いに行ったものの受け入れられず、そのまま、東京に残り書家になることを志す。1904(明治37)年に日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞し、この展覧会では「福田海砂(かいさ)」と号した(この号は翌年までの2年間のみ使用)。

その後、住み込みで版下書きの仕事を始め、実母の登女との関係もよくなっていく。1905(明治38)年、町書家・岡本可亭(マンガ家・岡本一平=おかもと・いっぺい、1886-1948=の父)の内弟子となり、その後、3年間住み込む。「福田可逸(かいつ)」の号を授かり、次第に可亭よりも仕事の発注が増え、帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向するようになる。

1907(明治40)年に「福田鴨亭(おうてい)」を名乗って可亭の門から独立し、1908(明治41)年2月17日に結婚(1914年に離婚)、その年の夏に長男が誕生した。仕事は繁盛し、稼いだ収入を書道具、骨董品、外食に注ぎ込むようになる。また合間には書肆(しょし)に出掛けて畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭した。

1910(明治43)年12月、実母と共に朝鮮に旅立つ。母を京城(現・ソウル)の兄のところへ送り届け、朝鮮内を旅し3カ月後、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め、3年ほど生活する。1911(明治44)年3月日本に残した妻に第二子が誕生、京城滞在1年弱で上海に向かい書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩(ご・しょうせき、1844-1927))に会う。

1912(大正元)年夏に帰国し、書道教室を開く。半年後、長浜の素封家・河路豊吉(かわじ・とよきち)に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここで「福田大観(たいかん)」の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を残している。敬愛する竹内栖鳳もしばしば訪れ、訪れた栖鳳に款印(かんいん)を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊(つちだ・ばくせん、1887-1936)らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まった。

1916(大正5)年に、3年前に長男の兄が他界したことにより、母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで「北大路魯卿(ろけい)」と名乗り、「北大路魯山人」の号を使いはじめる(魯卿と数年併用している)。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。

また日本新薬の創設者、内貴清兵衛(ないき・せいべえ、1878-1955)と彼の別荘である松ヶ崎山荘で交流を深め、料理に目覚めていった。1917(大正6)年に便利堂の中村竹四郎(なかむら・たけしろう)と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり、1921(大正10)年、会員制食堂「美食倶楽部」を発足した。

自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら制作した。1925(大正14)年3月20日には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」(現ザ・キャピトルホテル東急)を中村竹四郎とともに借り受け、中村竹四郎が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。

1927(昭和2)年には宮永東山窯から荒川豊蔵(あらかわ・とよぞう、1894-1985)を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始し、1928(昭和3)年に日本橋三越で「星岡窯魯山人陶磁器展」を開いた。しかし、魯山人の横暴さや出費の多さから、1936(昭和11)年、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎から内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は1945(昭和20)年の空襲により焼失した。

戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946(昭和21)年には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博した。1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチ(1904-1988)と山口淑子(李香蘭、やまぐち・よしこ、1920-2014)夫妻(1955年に離婚)を一時星岡窯に寄寓させた。1954(昭和29)年にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会を開き、その際にパブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)、マルク・シャガール(Marc Chagall、1887-1985)を訪問した。

1955年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退し、1959年に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去した。生涯に1908年、1917年、1927年、1938年、1940年、1948年と6度結婚したが、すべて破綻し、2人の男児は夭折し、娘も長じて魯山人の骨董を持ち出したことから勘当し、最晩年にいたっても病床に呼ぶことすら許さなかった。1998年に管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。

開場時間は10時30分から20時30分(最終日は18時)まで。入場は無料。

丸善日本橋で小沢摩純原画「ファンタジー」展

【銀座新聞ニュース=2018年3月12日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は3月14日から20日まで3階特設会場で小沢摩純さんによる絵画展「ファンタジーワールド」を開く。

丸善・日本橋店で3月14日から20日まで開かれる小沢摩純さんの絵画展に出品される作品。

伝説、童話、オペラなどをテーマに、大人が忘れかけていた夢を思い出させてくれる小沢摩純(おざわ・ますみ)さんの原画・版画約60点を展示販売する。小沢摩純さんは2009年から2010年、2016年、2017年に丸の内・丸善本店で個展を開き、日本橋店では2016年に個展を開いている。

小沢摩純さんは1962年東京都生まれ、1985年に女子美術大学芸術学部版画科を卒業、在学中の1984年に期待の新人版画大賞展にて買い上げ賞、大学版画展にて買い上げ賞、1986年に「クリスマス急行」(ほるぶ出版社)のさし絵を手がけ、1987年に個展を開く。1990年に「けんぶち絵本の村大賞」にて「びばカラス賞」を受賞した。

1991年に日本郵船グループの客船「クリスタルハーモニー」のナースリールームの壁画を担当、1994年にひかりのくに絵本「ねむりひめ」を刊行、光村図書社会科教科書1996年度版全学年の表紙画を担当、2000年に絵本「天使への手紙」(ヴォイス出版社)を刊行、2009年から丸の内・丸善本店で個展を開いている。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。

編集注:「小沢摩純」の「沢」は正しくは旧漢字です。名前などの名詞は原則として現代漢字(常用漢字)を使用しています。