森林連が「緑の雇用」林業就職説明会、研修生の体験話も

【銀座新聞ニュース=2013年1月16日】全国森林組合連合会(千代田区内神田1-1-12、コープビル8階、03-3294-9711)は1月26日13時から東京国際フォーラム(千代田区丸の内3-5-1)ブロックB5階ホールB5で「森林の仕事ガイダンス2013」を開く。

全国森林組合連合会が1月26日に開く「森林の仕事ガイダンス2013」のポスター。

「森林の仕事ガイダンス2013」は新たな林業の担い手となる林業作業士(フォレストワーカー)の確保や育成を目的に、森林と林業に関心を持つ人を対象にした林業就業相談会で、北海道から九州までの都道府県の林業労働力確保支援センターや森林組合連合会が相談ブースを設け、各地の林業に関する情報、林業作業の内容や就業までの流れについての説明する。ただし、当日は具体的な就職斡旋は行わないとしている。

また、大型モニターを使って、日本の林業の現状や緑の雇用、林業への就業の流れなどについて説明する「オリエンテーションコーナー」や、総合相談コーナーとして北海道、秋田、長野、岐阜、愛媛、熊本、宮崎などの「全国森林組合連合会ブース」も設ける。林業への就業をめざして技術習得に励む「緑の研修生・相談コーナー」や、実際に現場で働く研修生から仕事の内容や生活、暮らしの話が聞ける「緑の研修生トークショー」、「林業の道具」の展示などを通して、林業就業への流れや林業の仕事内容を紹介する。

ウイキペディアによると、林業は森林に入り、主として樹木を伐採することにより木材を生産する産業のことで、第1次産業のひとつで、その産業活動に付随して、森林資源を育成したり、森林の持つ公益的機能を保持する役割も担っている。

古代から木造建築をはじめ日用品の隅々に到るまで木製品が使われており、必要な用材を確保するため林業は古くから行われていたと考えられている。中世には寺社造営などに際して木材伐採を命じた文書が存在し、当時は山林資源の管理が行われていた。

戦国期には戦国大名の大名領国の成立に伴い、材木伐採や林産資源の採取、炭焼きや漆の採取、鉱山経営、狩猟など山における諸職人が領主権力に掌握され組織化し、戦国大名の本拠では居館を中心に城下町が形成され、城郭の普請や寺社の造営などこの時期には木材需要が増加し、山の民は領主権力から用益権を保証され、領主の必要とする資源や技術を提供した。

江戸時代には江戸幕府や藩によって御林が設定され、御林は明治維新後に新政府に引き継がれ、現在の国有林の原型となった。

戦時中には乱伐により山林が荒廃し、戦後は復旧造林が行われた。昭和30年代には高度経済成長に伴い林業が振興され、燃料消費構造の変革により利用価値の小さくなった薪炭林や老齢過熟の天然林が生産性の高いスギやヒノキなどの人工林に転換された。1956年に「森林開発公団」が発足し、1964年には林業生産の増大を定めた「森林・林業基本法」が制定された。

外材の輸入は国産材の不足分を補うための位置づけであったが、昭和40年代には石油に次ぐ輸入量となり、安い外材の増加による木材価格の低迷に加え、山村の過疎・高齢化、労賃の高騰などの影響を受け、日本の林業は打撃を受けた。一方で昭和40年代には都市環境の過密化や公害問題の発生から森林の公益的機能への関心が高まり、環境保全運動が流行した。

日本の木材自給率は27.8パーセント(2009年)と他国と比べて低く、ひとり人当たりの森林蓄積量も世界平均の約9分の1とされている。日本の林業は国際競争の激化による木材価格の低下から競争力を失い、森林の手入れも不十分で、森林の保全が叫ばれている。総務省国勢調査によれば、1960年には約44万人存在した林業労働者が2005年には約5万人規模と大幅に減少している。

全国森林組合連合会は日本全国の森林組合の連合会などの連合組織で、1946年に任意団体として設立され、1951年に「改正森林法」が公布され、1952年に「全国森林組合連合会」が設立され、1956年に森林共済事業をはじめ、1958年に森林組合振興3カ年計画を策定、1961年に第2次森林組合振興3カ年計画、1964年に森林組合拡充強化5カ年計画、1970年に国際協同組合同盟(ICA)ヘ加盟、1974年に組合林業株式会社を設立した。

1978年に「森林組合法」が公布され、1983年に長期育林共済が発足し、1989年に森林共済セット保険の扱いをはじめ(2001年に停止)、改正森林組合法及び改正森林組合合併助成法が公布、施行された。2002年に森林組合改革プランの策定と改革の実践に向けて決議している。

「緑の雇用サイト」によると、森林の作業とは1人前になるのに3年から5年かかる仕事で、夏、秋では、植付けされた苗木の成長を妨げる植物を除去する「下刈り」、くず、藤などのつる性植物が木に絡まったものを除去する「つる切り」、植えた木が成長し、下刈り終了後の3年から5年たったときに、目的樹種以外の植物を中心に、形質の悪い木を除去する「除伐」。

枯れ枝やある高さまでの生き枝をその付け根付近から除去する「枝打ち」、混みすぎた森林を、適切な密度で健全な森林へ導くために行う「間伐」、刈払機やチェーンソーのメンテナンス、刃の目立てなどを行う「道具の手入れ」などを行う。

冬、春では、苗木を寒冷期の凍害から防ぐために、土中に埋める「寒伏せ」と春先には埋めた苗木を土中から出す、寒伏せ起こしの作業、雪圧によって倒れた幼齢木を起こし、縄などで固定し、木を垂直に育てる「雪起こし」、伐採時期を迎えた木を伐り収穫し、次世代のための土地再生を行う「主伐」。

材地に散在している伐倒木や造材した丸太を林道端などの1カ所に集める「集材」や集材された木材をトラックなどに積み込み、木材市場や貯木場に運ぶ「運材」、伐採した森林に次の苗木を植えるため、整地をする「地ごしらえ」、地ごしらえを終えた場所に、苗木を1本ずつ植付ける「植付け」や植付けした苗木が、鹿などの動物に食べられてしまわないように周囲に防護ネットを張り巡らせる作業や重機のメンテナンスなどがある。

作業員は1年目が30日間の研修と最大130日の実践研修、2年目が25日間の研修と最大90日の実践研修、3年目が20日間の研修と最大90日間の実践研修があり、5年以上経つと、15日間の研修を経て、現場管理責任者となり、10年以上になると、10日間の研修を経て統括現場管理責任者になれる。

時間は13時から17時で、参加費は無料。事前の申し込みは不要。問い合わせは森林の仕事ガイダンス事務局(03-6225-0258)まで。

阪急ホテル築地が新名称に、18年感謝で2人で食事8900円

【銀座新聞ニュース=2013年1月16日】阪急阪神ホールディングス(大阪市北区芝田1-16-1)グループの東京新阪急ホテル築地(中央区明石町8、聖路加ガーデン内、03-5550-5700)は1月28日と29日の2日間、32階の日本料理店「明石」で「18年間ありがとうハンキュー謝恩プラン」を開く。

新阪急ホテル築地 ハンキュウプラン

東京新阪急ホテル築地が1月28日と29日の2日間、「明石」で開催する「18年間ありがとうハンキュー謝恩プラン」のポスターと、特別料理を調理した大森勉さん(左)と高野雄二さん。

2012年11月8日に阪急阪神第一ホテルグループとホテルマネージメントインターナショナル(HMIホテルグループ、東京本部・台東区東上野4-1-18)の間で2013年2月1日をもって、「東京新阪急ホテル築地」をホテルマネージメントインターナショナルに譲渡し、ホテル名を「銀座クレストン」と改称することが決まった。ホテルはそのまま業務委託を受けて、阪急阪神第一ホテルグループとして営業していくため、実質的な変更はない。

ただ、1994年開業以来、18年間使われてきた名称が変更されるため、東京新阪急ホテル築地で2日間、2人で8900円(税、サービス料込み)の特別価格で料理を提供する。メニューは和食の料理長、高野雄二(たかの・ゆうじ)さんと鉄板焼の統括シェフ、大森勉(おおもり・つとむ)さんが担当した。

メニューは先付、和風前菜、舌平目のムニエル 焦がしバターソース、黒毛和牛サーロイン(A3ランク)、もやしのしょう油焼き、御飯、汁椀、香の物、アイスクリーム、コーヒーとなっている。

期間中、同じフロアのラウンジ「ブリアン」ではピアノとサックス、バイオリンの演奏家が出演する。パノラミックルーム「崋山」では、以前閉店をしたバー「リード」を復活させる。

HMIホテルグループはインド出身で1976年に日本に帰化した比良竜虎(ひら・りゅうこ)さんが宝石問屋のある東京・御徒町で財をなし、1991年に「ホテルパールシティ神戸」を開業、1993年に沖縄のホテル「リザンシーパークホテル谷茶ベイ」(沖縄県国頭郡恩納村)を買収するなど次々とホテルを増やし、1998年10月に会社を設立、現在、資本金5000万円、従業員数が2530人、2008年9月期の売上高が218億円となっている。

2008年に日本郵政の宿泊・保養施設「かんぽの宿」の売却をめぐり、オリックス不動産と最後まで争い、2009年にハウステンボスの買収でも名前が挙がったことで知られる。

右腕の宮下慶輔(みやした・けいすけ)さんは東京・新橋の第一ホテル東京のホテルマンで、1989年にパールシティホテルズに転職し、1998年に設立された運営会社HMIの社長に就任した。これまで約100件のホテル、旅館の新設、再建を手掛けてきた。

また、HMIホテルグループでは、フルサービスの「クレストン」、シティホテルの「ホテルパールシティ」、コミュニティホテルの「クレストンホテル」、保養タイプの「ホテルウェルネス」、旅館と位置づけているホテルなどがあり、「銀座クレストン」はフルサービスの最高級ホテルとして運営していく。

営業時間は17時30分から20時30分。追加は1人につき4450円。

「とちおとめ25」が栃木いちごのPR大使に、U字工事と共に

【銀座新聞ニュース=2013年1月15日】全国農業協同組合連合会栃木県本部(JA全農とちぎ、栃木県宇都宮市本町12-11、028-626-2105)は1月15日午後、東京国際フォーラム(千代田区丸の内3-5-1)で「とちおとめ大使 サンプリングキャラバン出陣式」を開いた。

ちおとめ25とU字工事

とちおとめ大使に就任した「とちおとめ25」と4年目となる中央のU字工事(左から益子卓郎さん、福田薫さん)。

いちごで1968年以来、全国1位の生産規模(収穫高)を守っている栃木県の「JA全農とちぎ」が主力品種の「とちおとめ」を拡販するため、毎年都内で開いている新年産とちおとめの出荷PRで、2013年は新たに「とちおとめ25」を「とちおとめ大使」に加え、現在、「とちおとめ大使」の栃木県出身の漫才コンビ「U字工事」の福田薫(ふくだ・かおる)さんと益子卓郎(ましこ・たくろう)さんとともに首都圏を中心にPRする。

このため、1月15日から2月14日まで東京、千葉、神奈川、埼玉の1都3県の首都圏で「平成25年度産とちおとめ」を無料で配布する「無償サンプリング」を実施する。
会場では、栃木県出身の漫才コンビ「U字工事」の福田薫さんと益子卓郎さんが栃木県出身者で構成されている「とちおとめ25」のやよいさんとともに、「とちおとめ」と九州産の「あまおう」、佐賀県の「さがほのか」を食べ比べして当てるテストを行い、3人とも試食し、とちおとめを当てた。

JA全農とちぎによると、栃木県のいちご生産規模は240億円で、県内の園芸関係の580億円のうち、4割を占めており、約2000人の生産者が526ヘクタールの農地で栽培しているが、2012年11月から12月にかけて曇天と寒さにより平年よりも出荷量が少なかったが、年末年始から晴れが続き、出荷が増え始め、1月から2月にかけて「おいしさが凝縮する」(JA全農とちぎ本部長の斎藤昭雄=さいとう・あきお=さん)という。

いちごは赤く実るまで1年以上かかり、多くの手間をかけてつくられるため、JA全農とちぎ・栃木いちご消費宣伝事業委員会では「甘くてジューシーないちごは”食べる宝石”」(委員長の上野崇=うえの・たかし=さん)と呼んでいる。

「U字工事」は桜美林大学を卒業した1978年栃木県那須郡西那須野町(現那須塩原市)生まれの福田薫さんと1978年栃木県那須郡黒羽町(現大田原市)生まれの益子卓郎さんが2000年に結成し、2003年から2007年まで「M-1グランプリ」で5年連続準決勝に進出し、2008年に決勝進出し、5位となり、知名度を高めた。

「とちおとめ25」は2010年10月に中国・上海万国博覧会で栃木をPRするために結成されたアイドルグループで、1990年生まれのリーダーのあいさん、1994年生まれのえりさん、1993年生まれのサブリーダーのかりんさん、1999年生まれのくるみさん、1999年生まれのまどかさん、1996年生まれのメイさん、1996年生まれのやよいさんらが正規メンバーだ。

JA全農とちぎでは、2月14日まで都内の新宿タカシマヤ、埼玉県川口駅東口公共広場、横浜赤レンガ倉庫などで「とちおとめ25」が中心になって無償配布する。また、2月14日16時から東京タワーで特別企画を開催し、150メートルの大展望台まで外階段で昇ったカップルにとちおとめとチョコを使ってつくれる「チョコおとめサンプリング」をプレゼントする。

リクルートで壁グラフィックグランプリの田中豪展

【銀座新聞ニュース=2013年1月15日】リクルート(千代田区丸の内1-9-2 、グラントウキョウサウスタワー、03-6835-1111)が運営する「ガーディアン・ガーデン」(中央区銀座7-3-5、リクルートギンザ7ビル地下1階、03-5568-8818)は1月15日から31日まで田中豪さんによる個展「ディスコ(DISCO)」を開催する。

リクルートが1月15日から31日まで開催する田中豪さんの個展「ディスコ(DISCO)」に展示される作品。

2012年2月27日から3月22日に開かれた「第6回ワンウォール(1_WALL)グラフィック」でグランプリを獲得した田中豪(たなか・ごう)さんが個展を開く。

田中豪さんは江戸時代の絵師、曽我蕭白(そが・しょうはく、1730-1781)の絵と自分の落書きを組み合わせ、スクリーントーンを用いて人物を描いた作品「スタンド・アローン・コンプレックス」でグラフィック「第6回ワンウォール(1_WALL)」グランプリを受賞した。

均一なサイズで描かれたさまざまな姿形をした人物たちを、シール紙に印刷して壁に貼り付けるという「チープ」な方法で展示し、審査員に高評価され、満票を獲得した。

今回の個展では新しい人物たちが数多く登場し、一見「チープ」に見える人物像も、影響を受けた登場人物や印象に残ったイメージを、スクリーントーンの選び方や、人物の表情、服装などに置き換え、表現しているという。

会場を「ディスコ」に見立て、人物を配置し、樹木や花の写る背景画像と重ね合わせて展示する。これまでの作品と異なり、背景と組み合わさることで人物たちに場所と時間が加えられている。

田中豪さんは1983年長崎県生まれ、2007年にインターナショナルアカデミーを卒業、2011年に「第178回ザ・チョイス」に入選、2012年に第6回グラフィック「ワンウォール(1_WALL)」でグランプリを受賞している。

15日18時30分からオープニング・パーティーを開く。

開場時間は11時から19時。日曜日、祝日は休館。入場は無料。

丸善丸の内で片岡球子版画展、東山魁夷、小倉遊亀、有元利夫らも

【銀座新聞ニュース=2013年1月14日】丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ内、03-5288-8881)は1月16日から29日まで4階ギャラリーで片岡球子、東山魁夷、平山郁夫らの「片岡球子と巨匠版画展」を開催する。

丸善・丸の内本店で1月16日から29日まで開催される「片岡球子と巨匠版画展」に出品される片岡球子の作品。

日本画家で「帝展」や「院展」にたびたび落選し「落選の神様」とまでいわれた片岡球子(かたおか・たまこ、1905-2008)の版画作品を中心に、日本の風景画家で「国民的画家」として知られる東山魁夷(ひがしやま・かいい、1908-1999)、シルクロードの画家、平山郁夫(ひらやま・いくお、1930-2009)らの作品を展示販売する。

ほかに出品されるのは、日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現した加山又造(かやま・またぞう、1927-2004)、女性画や静物を生き生きと描いた小倉遊亀(おぐら・ゆき、1895-2000)、日本画家で京都造形芸術大学長の千住博(せんじゅ・ひろし)さん、東京芸術大学美術学部デザイン科教授の中島千波(なかじま・ちなみ)さん。

ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術や琳派、南画といった日本の伝統的な美術を取り入れ、装飾的な世界で知られた洋画家の梅原龍三郎(うめはら・りゅうざぶろう、1888-1986)、孤高の洋画家で自宅の虫や花を描き続けた熊谷守一(くまがい・もりかず、1880-1977)、バラの絵で知られる洋画家、中川一政(なかがわ・かずまさ、1893-1991)、日本画家の有元利夫(ありもと・としお、1946-1985)らだ。

ウイキペディアなどによると、片岡球子は1905年北海道札幌市生まれ、1926年に女子美術専門学校(現女子美術大学)日本画科高等科を卒業、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭を勤めながら創作し、「帝国美術院展覧会」(帝展)に3回落選し、1930年に「日本美術院展」(院展)に初入選、1933年にも入選したが、その後は落選が続いた。

1939年から院展の入選が続き、1955年に大岡小学校を退職、女子美術大学日本画科専任講師に就任、1960年に同大学助教授、1965年に同大学教授、1966年に愛知県立芸術大学日本画科主任教授、1973 年より同大学客員教授を務めた。1976年に勲三等瑞宝章を受章、1982年に日本芸術院会員、1989年に文化勲章を受章、100歳を超え、脳梗塞に倒れ、療養に努めたが、2008年に103歳で亡くなった。

東山魁夷は1908年神奈川県横浜市生まれ、1931年に東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科を卒業、在学中の1929年に第10回帝展に入選、卒業後、ドイツのベルリン大学(現フンボルト大学)に留学、1945年に軍隊に応召し、熊本県で終戦を迎え、山梨県中巨摩郡落合村(現南アルプス市)に落ち着き、同年11月に千葉県市川市に移った。

1947年の第3回日展で特選となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求し、北ヨーロッパ、ドイツ、オーストリア、中国に取材した作品を発表し、1969年に文化勲章を受章、1976年に旧西ドイツから功労大十字勲章を授与、1985年に旧西ドイツからプール・ル・メリット勲章を授与、1999年に死去した。約10年かけた奈良の唐招提寺御影堂(とうしょうだいじみえいどう)障壁画「黄山暁雲」が畢生の大作となった。

平山郁夫は1930年広島県豊田郡瀬戸田町(現尾道市瀬戸田町)生まれ、1945年に原子爆弾に被災、1952年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業、同校助手となり、1973年に教授、1989年に東京芸術大学第6代学長に就任した。1992年から「世界平和アピール七人委員会」の委員となり(2005年まで)、1992年に日中友好協会会長(2008年まで)、1996年から日本育英会会長(2001年まで)、1998年に文化勲章を受章した。

2001年に再び東京芸術大学学長に就任(2005年まで)、2005年に日韓友情年日本側実行委員長を務め2004年に「修交勲章興仁章」を受章し、2005年に「日韓友情年」日本側実行委員も務めた。また、高松塚古墳壁画の模写、カンボジアのアンコール遺跡救済活動、「文化財赤十字」の名のもとに中東など紛争地域の文化財保護に奔走するなど、幅広く活動した。広島県尾道市瀬戸田町には「平山郁夫美術館」があり、滋賀県守山市の佐川美術館にも多くの作品が収蔵されている。

加山又造は1927年京都府京都市生まれ、京都市立美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高校)絵画科を卒業、1949年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業、1950年に第2回創造美術(現創画会)春季展、秋の第3回創造美術展に入選し、1951年に第15回新制作協会展日本画部で新作家賞を受賞、1966年から1972年まで多摩美術大学教授、1979年に芸術選奨文部大臣賞を受賞、1988年から1995年まで東京芸術大学教授、その後、東京芸術大学名誉教授、1997年に文化功労者に選ばれ、2003年に文化勲章を受章した。

小倉遊亀は1895年滋賀県大津市生まれ、1917年に奈良女子高等師範(現奈良女子大学)を首席で卒業、女子高で国文学を教えるかたわら絵画を学び、1926年に院展に入選、1932年に女性として初めて日本美術院同人、1936年に小倉鉄樹(おぐら・てつき、1865-1943)と結婚し、以後鎌倉に住んだ。1976年に日本芸術院会員、1978年に文化功労者、1980年に女性画家として2人目の文化勲章を受章した。1990年から1996年まで日本美術院理事長、2000年に105歳で亡くなった。

梅原龍三郎は1888年京都府京都市生まれ、1903年に後に関西美術院院長を務めた伊藤快彦(いとう・よしひこ、1868-1936)の画塾に入り、その後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)教授の浅井忠(あさい・ちゅう、1856-1907)の「聖護院洋画研究所」に移り、1906年に浅井忠と伊藤快彦が「関西美術院」を設立すると同時に入学した。

1908年から1913年にヨーロッパに留学し、フランス・パリの「アカデミー・ジュリアン」で学び、1909年にルノワール(Pierre-Auguste Renoir、1841-1919)の指導を受け、1913年に帰国、1914年に「二科会」の創立に参加、同年に亀岡艶子(かめおか・つやこ)と結婚、1919年にルノワールが亡くなると、1920年に弔問のためヨーロッパを訪れた。

1922年に「春陽会」の設立に参加、1925年に「国画創作協会」に合流し、1935年に帝国美術院会員(1937年に拡充された帝国芸術院(現日本芸術院)会員)となり、1944年には帝室技芸員、東京美術学校(現東京芸術大学)教授に就任した。1934年から鹿児島の桜島を描くなど、鹿児島シリーズが1940年まで続き、戦時中は伊豆で富士山などを描いた。

1952年に東京芸術大学教授を辞任、ヨーロッパにわたり、イタリアのベネチア・ビエンナーレの国際審査員となり、文化勲章を受章、1953年に軽井沢にアトリエを作り、毎年夏に滞在した。1973年にはフランスの「コマンドール勲章」を受賞し、1977年のフランスへの旅が最後のヨーロッパ旅行となり、1986年1月16日に肺炎による心不全で死去した。

中川一政は1893年東京都本郷生まれ、1914年に「巽画会展」に出品、1920年に初の個展を開き、1922年に「春陽会(しゅんようかい)」の設立に参加、1949年に神奈川県真鶴町にアトリエを構え、1975年に文化勲章を受章、1986年に母の故郷、石川県松任市(現白山市)に松任市立中川一政記念美術館(現白山市立松任中川一政記念美術館)が開館、1989年に真鶴町に真鶴町立中川一政美術館が開館した。1991年に亡くなった。

熊谷守一は1880年岐阜県中津川市付知町生まれ、1900年に東京美術学校に入学、1905年と1906年に樺太調査隊に参加、1909年に第三回文展に出展、1913年ころに実家へ戻り、日雇い労働の職につき、1915年に上京し、第2回二科展に出展、1922年に大江秀子(おおえ・ひでこ)と結婚し、1929年に二科技塾の開設に際し参加、後進の指導に当たり、1932年に「池袋モンパルナス」と称される地域(現豊島区椎名町から千早)の近くに家を建て、生涯を過ごした。

1947年に「二紀会」創立に参加(1951年に退会)、1956年に脳卒中に倒れ、写生旅行を断念、1968年に文化勲章を辞退、1972年に勲3等叙勲を辞退、1976年に「アゲ羽蝶」が絶筆となり、1977年8月1日に肺炎で死去した。1985年に自宅を「熊谷守一美術館」(豊島区千早2-27-6、03-3957-3779)として建て替えた(2007年から豊島区立)。

有元利夫は1946年岡山県津山市生まれ、1969年に東京芸術大学美術学部デザイン科に入学、1972年に渡辺容子(わたなべ・ようこ)と結婚、1973年に卒業、電通に就職、デザイナーとして菓子箱や雑誌の広告を手がけ、1976年に退社し、東京芸術大学非常勤講師を務め、1978年に安井賞特別賞、1981年に安井賞、1985年に逝去した。生涯に制作したタブローは400点にみたない。

開場時間は9時から21時(最終日は16時)まで。入場は無料。