T・クルーズの好演でシリーズ化も感じさせる「アウトロー」(102)

【ケイシーの映画冗報=2013年2月14日】映画の発祥は19世紀末のフランスですが、娯楽として発展させたのがアメリカであることに異論はないでしょう。アメリカ映画の創成期に初の長編作品(といっても12分ほど)として制作されたのは「大列車強盗」(The Great Train Robbery、1903年)という西部劇でした。

現在、一般公開中の「アウトロー」はイギリスの作家、リー・チャイルドの2005年の小説「ワン・ショット」が原作で、制作費が6000万ドル(約60億円)、興行収入が1億9000万ドル(約190億円)を記録している。

1890年には「フロンティアの消失」が国勢調査局(Bureau of the Census)により宣言され、西部開拓時代は過去のものとなっていましたが、広大な西部にアメリカ市民は憧憬を 抱きつづけており、そこを舞台に当時としては派手な活劇を描いた「大列車強盗」も成功作となりました。

その後も西部劇は映画界の一大潮流となり、クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)がイタリアで主演した西部劇「荒野の用心棒」(A Fistful of Dollars、1964年)がヒットしたことから、「マカロニ・ウエスタン」のような海外作品群も生まれました。

1970年代になると、世情の変化から、それまで制作されていた、「単純なストーリーと明快な人物造型」による西部劇映画は衰退してしまいますが、一方で西部劇が定着させた「放浪する孤独なヒーロー」、たとえば、1953年の「シェーン」(Shane)の主人公シェーンのようなヒーロー像は、他のジャンルにも登場しています。

クリント・イーストウッドが、大型拳銃マグナム44を手に連続殺人犯を追うハリー刑事を演じた「ダーティハリー」(Dirty Harry、1971年)は、まさに現代のウェスタンという様式で、マカロニ・ウエスタンで地歩を築いたイーストウッドの当たり役となりました。

本作「アウトロー」(原題はJack Reacher)を訳せば「無法者」。これも西部劇にはたびたび登場する人物であり、主人公にも敵役にもなれる存在です。ピッツバーグ近郊で起きた白昼の射殺事件。現場に残された証拠品から元軍人の容疑者が逮捕されます。取り調べで黙秘をつづけるこの容疑者が調書に記した一文が「ジャック・リーチャーを呼べ」でした。

ジャック・リーチャー(演じるのはトム・クルーズ=Tom Cruise)は、もとアメリカ軍のエリート捜査官でしたが、除隊後は自身の痕跡をことごとく消し去り、所持品はパスポートと歯ブラシのみ。住所も携帯電話もクレジットカードもなく、個人を証明するものはパスポートと社会保障番号しかないという、まさに現在の流れ者という設定になっています。

そのリーチャーに調査を依頼するのが、銃撃事件の容疑者を担当する女性弁護士のヘレン(演じるのはロザムンド・パイク=Rosamund Pike) 。彼女はこの事件を立件する立場にある地方検事の娘でありながら、司法取り引きで強引に有罪にする父のやり方に疑問を持ち、不利を承知で弁護を引き受けたのでした。

リーチャーとヘレンは、この銃撃事件に真犯人が存在することを突き止めますが、同時にそれは、ふたりが真犯人たちの新たな標的となることも意味し ていたのです。

リーチャーはなにものにも帰属せず、自分自身の持つ価値観のみによって行動する超然とした人物として描かれ、原作のリー・チャイルド(Lee Child)も、「正義の象徴です。(中略)不正を見つけては、躊躇(ちゅうちょ)なしに正してくれる」(「パンフレット」より)と、リーチャーを表現しています。

本作はまさに「現代の西部劇」でリーチャーが凄腕(すごうで)のガンマンにして保安官。馬を車に、荒野を大都会に置き換えたというおもむきが全編に漂っています。トム・クルーズ本人が運転し、8台を廃車にして撮影したという、夜のピッツバーグで繰り広げられるカーチェイスは、CGもスタントも使っていないということで、夜の街を疾駆するリーチャーの姿をそのまま活写しており、プロデューサーも兼ねるトム・クルーズの「妥協なき映画作り」に対する熱 意が伝わってくるようです。

銃撃や格闘もケレン味のないもので、ちかごろ多用される銃弾の雨が降りそそぐような派手なものではなく、一発、一弾の重みが響くような表現となっていたり、いきなり悪漢に襲撃されたリーチャーが不覚をとるといった、現実味のある構成が随所になされています。

卓越した戦闘力を持ちながら、銃を撃つのは最小限(傑作「シェーン」も最後の最後まで、シェーンは相手に銃を向けませんでした)と控え気味。自身への攻撃は振り払いつつ、綿密な観察と推理でトリックをあばき、真実に迫っていくジャック・リーチャー。「ミッション・インポッシブル」(Mission:Impossible、1996年から)につづく、トム・クルーズのあらたなシリーズ作品となる可能性を充分にそなえた、魅力的なキャラクターであると感じました。次回は「ダイ・ハード/ラスト・デイ」の予定です(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します)。

編集注:ウイキペディアによると、アメリカの国勢調査局は1平方マイル(1マイルは1.6キロ)につき、人口が2人以上6人以下の地域を「フロンティア」と定めており、白人入植者によるインディアンに対する征服が進むとともに、フロンティア・ラインは西部に漸次移動していき、1890年に国勢調査局長がフロンティア・ラインと呼べるものがなくなったことを国勢調査報告書に記載した。これが「フロンティアの消滅」である。19世紀末に白人の侵略は西海岸に到達し、もはや開拓すべき土地がなくなり、アメリカのすべての土地に入植者が入ったことを認めたことになる。

同時に、1890年はアメリカンインディアンが完全に征服された年として知られている。1890年にアメリカ軍の第7騎兵連隊がスー族に対して「ウーンデッド・ニーの戦い(インディアン側から見れば「虐殺」)」を行い、これにより「インディアンの掃討が完了した」としたとされている。第7騎兵連隊がインディアンのスー族を包囲し、銃火を浴びせ、女性や子どもを含む約300人近くが殺害されたといわれているが、アメリカ政府は200人以下とし、詳細な調査がなされていない。第7騎兵隊は議会勲章を授与されている。

一方、「フロンティアの消滅」と前後して、アメリカは太平洋などに進出をはじめ、1897年にハワイを、1898年にスペインとの戦争(米西戦争)に勝利して、フィリピン、グアム、プエルトリコを獲得し、キューバを独立させ、アメリカはフィリピンの独立運動を鎮圧して1901年に完全な植民地とした。その後、アメリカは中国大陸に進出し、1899年に門戸開放宣言、1905年に鉄道王のエドワード・ハリマン(Edward H.Harriman、1848-1909)の南満洲鉄道共同経営提案(実現せず)、国務長官のノックス(Philander Knox、1853–1921)の満州鉄道中立化提案(実現せず)などを行った。

丸善丸の内でナカバンの「よるのむこう」原画展、ワークショップも

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【銀座新聞ニュース=2013年2月14日】丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ、03-5288-8881)は2月13日から3月3日まで3階中央エレベーター前でナカバン(nakaban)さんによる「よるのむこう原画展」を開いている。

丸善・丸の内本店で2月13日から3月3日まで開催されるナカバン(nakaban)さんの「よるのむこう原画展」に展示される表紙。

2月7日に画家のナカバン(nakaban)さんが「よるのむこう」(白泉社、1680円)を刊行したのを記念して原画を展示する。

「よるのむこう」は白泉社の月刊の絵本とキャラクターの雑誌「モエ(MOE)」に掲載された絵を元にして生まれた絵本で、帰郷をテーマにし、「旅をするような気分」にひたれるとしている。

nakabanさんは1974年広島県生まれ、多摩美術大学グラフィックデザイン科を卒業、1996年と1997年の在学中にリクルートの「ひとつぼ展」に入選、卒業後、「チルドレンズミュージアム」に2年間勤め、その後フリーとなり、現在、雑誌や書籍のさし絵や絵本を手掛け、版画や立体作品、アニメなど幅広く活動している。

2月23日15時から3階児童書売場特設会場でナカバンさんによる「はり絵ワークショップ&サイン会」を開く。

定員は20人(3歳以上)で3階レジカウンターで整理券を配布する。また、丸善・丸の内本店で「よるのむこう」を購入すると、ワークショップ終了後にサイン会に参加できる。

開場時間は9時から21時、入場は無料。

銀座スウィングでW・ウーが100回記念ライブ、柏木広樹らと

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【銀座新聞ニュース=2013年2月13日】二條(中央区銀座西2-2、銀座インズ2-2階)が運営する銀座スウィング(中央区銀座西2-2、銀座インズ2-2階、03-3563-3757)は2月14日にウェイウェイ・ウーさんらによる「スウィング(SWING)出演100回記念ライブ!」を開催する。

ウェイウェイ・ウーさん

銀座スウィングで2月14日にスウィング出演100回記念ライブを開くウェイウェイ・ウーさん。

中国の伝統的な楽器「二胡」奏者のウェイウェイ・ウー(巫謝慧)さんが銀座スウィングと2012年1月末に閉店した銀座スウィングシティに出演して100回目になるのを記念して、バレンタインデーの日にライブを開く。ウェイウェイ・ウーさんのHPによると、「デビュー前からお世話になっていた」のが銀座スウィングシティで、2012年1月末の閉店の際も最後に出演している。

共演するのはギター奏者の越田太郎丸(こしだ・たろうまる)さん、ピアノ奏者の森丘ヒロキ(もりおか・ひろき)さん、ベース奏者の佐藤慎一(さとう・しんいち)さんで、ゲストとしてチェロ奏者の柏木広樹(かしわぎ・ひろき)さんが登場する。

ウェイウェイ・ウーさんは中国・上海生まれ、5歳からバイオリンをはじめ、上海戯曲学校で二胡とバイオリンを専攻し、いずれも首席で卒業、上海でプロ奏者として活躍し、1991年に来日、多くの分野の音楽家と共演する。「エレクトリック二胡」を初めて開発したり、座って演奏する二胡を立ち形式で演奏するなど独自の方式を確立した。

2002年に「メモリーズ・オブ・ザ・フューチャー」でデビュー、2003年に2枚目のアルバム、故郷をテーマにした「上海レッド」を発売し、2004年にアメリカの歌手、バート・バカラック(Burt Bacharach)さんの歌を二胡でカバーしたアルバム「プレイズ・バカラック」、2006年に二胡による世界1周をテーマにしたアルバム「ノーマド(Nomad)」を発売した。現在、二胡教室を主宰するほか、NHK交響楽団をはじめ、オーケストラと共演するなど広く活動している。

越田太郎丸さんは1968年東京都生まれ、9歳よりクラシックギターをはじめ、中学2年より友人とロックバンドをはじめ、学習院大学を卒業、在学時は「中南米研究会」に所属、卒業後にプロ活動をはじめ、都内のブラジルレストラン、バーでレギュラー出演し、1997年にブラジル風のアコースティックバンド「ボサドマーゴ」を結成し、これまでに2枚アルバムを発売している。

森丘ヒロキさんは1980年秋田県生まれ、幼少より父親の影響でクラシック音楽に親しみ、10歳でピアノを習い、国立音楽院でジャズピアノを学び、2000年に浅草ジャズコンテストで金賞を受賞、在学中からプロ活動をはじめ、2009年に「森丘ヒロキ楽団」を設立している。

佐藤慎一さんは1963年東京都生まれ、6歳のころからピアノをはじめ、慶応大学を卒業、在学中は「ジャズ研究会」に所属、4年生の時には「慶応ライトミュージックソサエティ」に参加、モンタレージャズフェスティバルに出演し、卒業後、アメリカのバークリー音楽大学に留学、映画音楽の作曲を専攻、1991年に帰国し、「大友義雄(おおとも・よしお)バンド」に参加した。

1999年にスティーブン・ソンドハイム(Stephen Sondheim)さんのミュージカル「カンパニー」のオーケストラに参加、2006年にアメリカ・ニューヨークのアバタースタジオで録音したリーダーアルバムを発売し、2008年に「守屋純子(もりや・じゅんこ)カルテット」でカリフォルニア・モンタレージャズフェスティバルに参加した。 2010年に平原綾香(ひらはら・あやか)さんと上海万博に出演している。

柏木広樹さんは1968年東京都生まれ、東京芸術大学音楽学部器楽科を卒業、在学中の1989年に「ジークレフ(G-CLEF)」(1994年に解散)のメンバーとしてデビュー、1990にNHK「紅白歌合戦」に出場、その後、葉加瀬太郎(はかせ・たろう)さんのサウンドプロデューサーなどを務めている。2001年に最初のアルバムを発売し、2003年に2枚目、2004年に3枚目、2006年に4枚目、2008年に5枚目のアルバム、2010年に6枚目のアルバムを発売している。

また、「メード・イン・カーサ・フェリッツ(Made in CASA FELIZ、CASA FELIZはポルトガル語で楽しい家)」というシリーズライブを開いている。さらに、越田太郎丸さんが率いる「ボッサ・ド・マゴ(BOSSA DO MAGO)」に参加し、越田太郎丸や青柳誠(あおやぎ・まこと)さんらとインストゥメンタルバンド「森」を結成している。

ヤマハのエレクトリック弦楽器「サイレント・シリーズ」の開発に協力したり、2006年にアメリカのカーボンファイバー楽弓メーカー、コダボウ(CodaBow)社から柏木広樹モデルが発売された。日本の輸入総代理店である黒沢楽器店が企画、国内外のプロのチェロ奏者も利用されている。2009年に第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画「おくりびと」で主演の本木雅弘(もとき・まさひろ)さんにチェロ指導し、、劇中アフレコを務めている。

開演時間は19時と21時の2回。音楽チャージは会員3150円、同伴者が4200円、一般が5250円。当日、ウイスキーを入れると会員になれる。

リンツが復活祭向けバニーチョコ

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【銀座新聞ニュース=2013年2月13日】スイスのチョコレート・菓子メーカーのリンツ&シュプルングリー(Lindt&Spruengli AG)の日本法人、リンツ&シュプルングリージャパン(中央区銀座7-6-12)はホワイトデーとイースター(復活祭)向けチョコを販売している。

リンツ&シュプルングリージャパンが「リンツ ショコラ カフェ銀座店」などで販売するイースター(復活祭)向け「ゴールドバニー フレンズ」。

今回、販売するのはイースター(復活祭)向けにイースターのシンボル、赤いリボンと鈴を付けたミルクチョコ「ゴールドバニー」、50グラムのミルクチョコのゴールドバニー2個をバッグに詰めた「ゴールドバニー フレンズ」、ミルクチョコのミニ・ゴールドバニー5個入りのセット「ミニ・ゴールドバニー」、ミニ・ゴールドバニー1個とリンドールミルクのエッグチョコが7個入った「ゴールドバニー缶」、ホワイトデー季節限定のリンドール ストラッチアテラやリンドールキューブなどだ。

「イースター(Easter)」はキリスト教においてもっとも重要な祝い日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが3日目に復活したことを記念して祝う。毎年、日付が変わる移動祝日で、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と定められており、2013年は3月31日(西方教会)となっている。

ヨーロッパ諸言語においては「復活祭」はギリシア語の「パスハ」に由来し、ユダヤ教の「過越(すぎこし)の祭り」を表す「ペサハ(Pesach)」というヘブライ語の言葉から来ている。キリスト教の復活祭がユダヤ教の「過越の祭り」から生まれた祝い日であることを示している。カトリック教会においてもイタリアなどのラテン系の国では「パスカ(Pascha)」が一般的となっている。

復活祭を表す英語「イースター」はゲルマン神話の春の女神「エオストレ(Eostre)」に由来しているといわれている。そのため、復活祭の習慣の中には、ゲルマン人の祭りに由来すると思われるものがあり、復活祭に色をつけた卵を配るイースター・エッグや多産の象徴であるウサギ(イースターバニー)が復活祭のシンボルとされている。

ウサギはその目が、月を思い起こさせ、月は欠けて見えなくなっても、また新月から三日月、満月となることから復活を表すものとして、キリストの復活のシンボルとされている。

イースター・エッグとは、カラフルなペイントで彩色したゆで卵、または、チョコで作られた飾りの卵のことで、この風習がイースター・エッグの始まりとされている。そのイースター・エッグを運んでくるとされているのがイースター・バニーだ。

イースターの日には子どものいる家庭では、庭や家の中で卵を隠し、子どもに探させる「エッグ・ハント」や、丘の上から卵を転がす「エッグ・ロール」、卵をスプーンに乗せて競争する「エッグ・レース」などが行われる。

リンツが「ゴールドバニー」を初めて作ったのは1952年で、ショコラティエの家の庭に小さなウサギが現れ、それを見た彼の幼い息子が大喜びしたが、ウサギが茂みに隠れてしまうと、大泣きした。そこでショコラティエは息子のためにチョコのウサギを作ることを思い立ち、ウサギがどこに行っても見つかるように首に赤いリボンを巻き、鈴をつけたという。ヨーロッパでは、ゴールドバニーが店頭に並び始めると、人々は春の到来を感じる風物詩となっている。

価格はゴールドバニーが50グラム400円、100グラム600円、ゴールドバニーフレンズ50グラム2個入りが830円、ミニ・ゴールドバニー10グラム5個入りが630円、ゴールドバニー缶が40グラム入り800円、リンドール ストラッチアテラが200グラム1350円、リンドールキューブ(ホワイト)が250グラム2600円。

「リンツ ショコラ カフェ銀座店」(中央区銀座7-6-12、03-5537-3777)などで販売する。銀座店の営業時間は平日が11時から21時(土・日曜日、祝日20時)。2月18日からリンツ ショコラ カフェで1万円以上購入すると、リンツのゴールドバニーのぬいぐるみをもらえる(なくなり次第終了)。

丸善日本橋で新版画の川瀬巴水生誕130年展

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【銀座新聞ニュース=2013年2月13日】丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月13日から19日まで3階ギャラリーで「生誕130年 川瀬巴水木版画展」を開催する。

丸善・日本橋店で2月13日から19日まで開催される「生誕130年 川瀬巴水木版画展」に出品される「東京十二題 雪の白ひげ」(1920年)。

日本の浮世絵版画を復興するため新しい浮世絵版画「新版画」を確立した川瀬巴水(かわせ・はすい、1883-1957)が1910(明治44)年に日本画家の鏑木清方(かぶらき・きよかた、1878-1972)に入門を許され、本格的に画業に取り組み、1918(大正7)年に風景版画を制作して以来、600点も残している。生誕130年になるのを記念して初期のすり作品数点を含む30点余りの初期すり作品を展示販売する。渡辺木版美術画舗(中央区銀座8-6-19、03-3571-4684)が厳選して出品している。

ウイキペディアなどによると、「新版画」は1897(明治30)年前後から昭和時代に描かれた版画のことで、江戸時代に流行した浮世絵版画が1894(明治27)年の日清戦争を描いた戦争絵の一時的なブームを最後に、急速に力を失い、廉価な石版画、写真、大量印刷の新聞、雑誌、絵葉書などといった新商品の人気に押され、売れ行き不振となり、衰退していった。

そのような中で、従来の浮世絵版画と同様に、絵師、彫師、すり師による分業の制作方式に興味をもったのが、1899(明治32)年に来日したヘレン・ハイド(Helen Hyde、1868-1919)や1900(明治33)年に来日したエミール・オルリック(Emil Orlik、1870‐1932)ら外国人だった。

その後、橋口五葉(はしぐち・ごよう、1880-1921)らが新版画に着手し、日本画家のみならず、洋画家や外国人作家の参画によって、1923(大正12)年に発生した関東大震災以前の新版画がもっとも華やかで、実験的な作品を生み出す時代を迎えた。それらは現代的なデッサンの美人画、役者絵、陰影のある風景画や花鳥画などが描かれたという。

川瀬巴水は1883(明治16)年東京都生まれ、10代から画家を志して日本画を学び、1908年に25歳で父親の家業を継ぐが、画家になる夢を諦めきれず、妹夫婦に商売を任せて日本画と洋画を学んだ。1910年、27歳で日本画家の鏑木清方に入門し、「巴水」の画号を与えられる。

1918年に風景版画を制作し、1920年に「旅みやげ第一集」を完成、1921年に「東京十二題」と「旅みやげ第二集」を完成、1923年に関東大震災で被災しながらも、1926年に「日本風景選集」、1929年に「旅みやげ三集」、1930年に「東京二十景」、1936年に「日本風景集東日本編」を完成させた。

1939年に「朝鮮八景」を完成させ、1944年には栃木県塩原に疎開、1948年に東京都大田区内に引越し、1957年に自宅で胃ガンのため74歳で死去した。衰退した日本の浮世絵版画を復興すべく、新しい浮世絵版画である新版画を確立した人物として知られる。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。入場は無料。