丸善日本橋で岡本太郎、草間弥生版画展、村上隆らも

【銀座新聞ニュース=2019年9月2日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は9月4日から10日まで3階ギャラリーで「コンテンポラリ-アート展 岡本太郎と草間弥生 版画特集」を開く。

丸善・日本橋店で9月4日から10日まで開かれる「コンテンポラリ-アート展 岡本太郎と草間弥生 版画特集」に出品される草間弥生さんの「かぼちゃ」(シルクスクリーン)。

今回は、前衛芸術家2人のコラボレーション企画で、岡本太郎(おかもと・たろう、1911-1996)と、世界でもっとも注目されている作家、草間弥生(くさま・やよい)さんの版画作品約20点を展示販売する。また、元永定正(もとなが・さだまさ、1922-2011)、村上隆(むらかみ・たかし)さんら現代美術家の作品も紹介する。

ほかに出品するのは、アメリカの画家、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928-1987)、ドイツの彫刻家、ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys、1921-1986)、建築家の黒川紀章(くろかわ・きしょう、1934-2007)、菅井汲(すがい・くみ、1919-1996)ら。

ウイキペディアなどによると、岡本太郎は1911年神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現神奈川県川崎市高津区二子)で、マンガ家の岡本一平(おかもと・いっぺい、1886-1948)、歌人で小説家のかの子(おかもと・かのこ、1889-1939)との長男として生まれる。慶応義塾普通部を卒業、1929(昭和4)年に東京美術学校に入学し(半年で中退)、1930年に父親の一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議を取材することになり、岡本太郎も東京美術学校を休学後、親子3人にかの子の愛人の青年2人を加えた一行で渡欧した。一行を乗せた箱根丸は1929年(昭和4年)神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。以後約10年間をここで過ごした。

フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活し、1932年頃、パリ大学(ソルボンヌ大学)においてヴィクトール・バッシュ(Victor Basch、1863-1944)教授に美学を学び、1938年頃からマルセル・モース(Marcel Mauss、1872-1950)の下で絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。1932(昭和7)年、両親が先に帰国し、パリで見送るが、母親のかの子は1939(昭和14)年に逝去したため、これが今生の別れとなった。

1932年、ジャン・アルプ(Jean Arp、1886-1966)らの勧誘を受け、美術団体「アプストラクシオン・クレアシオン協会」のメンバーとなり、1940(昭和15)年、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国、滞欧作「傷ましき腕」などを二科展に出品して受賞した。

1942(昭和17)年に大東亜戦争下で、補充兵役召集され帝国陸軍兵として中国戦線へ出征した。最下級の陸軍2等兵扱いで、この頃、上官の命令で師団長の肖像画を描いている。1945(昭和20)年に敗戦になると、長安で半年ほどの俘虜生活を経たのち帰国し、佐世保から東京に到着するも、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、制作に励み、1947年に新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。

1948年に花田清輝(はなだ・きよてる、1909-1974)らとともに「夜の会」を結成、この頃、平野敏子(ひらの・てるこ、1926-2005)と出会い、敏子は後に秘書・養女となり、岡本が逝去するまで支え続けた。1950年に「日本アヴァンギャルド美術家クラブ」を創立、1954年に東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て、1960年代後半にメキシコを訪れ、滞在中に現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受け、「明日の神話」を制作した。

1970年に大阪で万国博覧会が開かれることになり、国からテーマ展示のプロデューサー就任を要請され、承諾すると、出来上がったのが「太陽の塔」だった。1975年に「太陽の塔」の永久保存が決定し、現在も大阪のシンボルとなっている。1950年代からバラエティ番組やクイズ番組などに出演し、1970年代以降には日本テレビバラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」にレギュラー出演している。1984年、フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受章した。

1989年にフランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受章、1991年、80歳で自身が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈し、市は美術館建設を計画、1996年1月7日に患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶応義塾大学病院にて死去した、享年84歳。葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、1997年2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれ、1998年に青山の住居兼アトリエが岡本太郎記念館として一般公開された。1999年10月30日に川崎市岡本太郎美術館が開館した。

草間弥生さんは1929年長野県松本市生まれ、1945年に大戦下に疎開してきた画家たちが立ち上げた「第1回全信州美術展覧会」に16歳で入選、松本高等女学校(現長野県松本蟻ヶ崎高校)を卒業、京都市立美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高校)の4年生最終課程に編入して日本画を学び、翌年卒業、絵画技法を身につけるも、旧弊な日本画壇に失望し、松本の実家で毎日数十枚以上を描いた。

1957年にアメリカにわたり、ニューヨークを中心に活動、ハプニングと称される過激なパフォーマンスを実施し、ベネチア・ビエンナーレにも参加し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとり、平和・反戦運動にも携わった。1968年に自作自演の映画「草間の自己消滅」で第4回ベルギー国際短編映画祭に入賞、第2回アン・アーバー映画祭で銀賞、第2回メリーランド映画祭でも受賞した。

1973年に体調を崩し日本へ帰国、入院し、1978年に処女小説「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表、1983年に小説「クリストファー男娼窟」で第10回野性時代新人文学賞を受賞、1993年にベネチア・ビエンナーレに日本代表として参加、2000年に第50回芸術選奨文部大臣賞、2001年に朝日賞、2002年に紺綬褒章、2006年に旭日小綬章、ライフタイムアチーブメント賞、高松宮殿下記念世界文化賞、2009年に文化功労者、2013年に東京都新宿区に個人美術館を建て、2014年に安吾賞、2016年に文化勲章を受章している。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)。入場は無料。

注:「草間弥生」の「弥」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。

シャネルでV・ヨガナンタンが風景とシーンで「ラーマーヤナ」世界展

【銀座新聞ニュース=2019年9月1日】フランスの総合ファッション企業「シャネル」の日本法人、シャネル合同会社(中央区銀座3-5-3、シャネル銀座ビルディング、03-5159-5555)は9月3日から29日まで4階シャネル・ネクサス・ホールでヴァサンタ・ヨガナンタンさんによる写真展「A Myth of Two Souls 二つの魂の神話」を開く。

9月3日から29日までシャネル・ネクサス・ホールで開かれるヴァサンタ・ヨガナンタンさんの写真展「ミス・オブ・ツー・ソウル(A Myth of Two Souls)二つの魂の神話」に展示される作品「ロンギング・フォー・ラブ、ダヌシコディ、インド(Longing For Love, Danushkodi,India)」(2018年、(C)Vasantha Yogananthan)。

フランス人写真家のヴァサンタ・ヨガナンタン(Vasantha Yogananthan)さんが紀元前300年頃に古代インドの詩人、ヴァールミーキ(Maharshi Valmiki、生涯についてはまったくわかっていないが、紀元前500年ころから紀元前100年ころまでの約400年の間のいずれかに生まれたと考えられている)が編さんした「ラーマーヤナ」に着想を得て制作したのが「ミス・オブ・ツー・ソウル(A Myth of Two Souls)」プロジェクトだ。

風景写真と「ラーマーヤナ」の役柄を演じる人物の写真によって展開され、風景写真では「ラーマーヤナ」の中で描写された、現代インド人にとっては伝説的な風景を撮影し、「ラーマーヤナ」は地元の人々に自分の心に刻まれたシーンを演じてもらっている。

4×5インチ大判カメラでモノクロ撮影した作品には、伝統的な手彩色を学んだインド人画家が着色を施している。現実とフィクションの境界線が曖昧になった、叙事詩的な旅へと見る者を誘うとしている。

「ミス・オブ・ツー・ソウル」プロジェクトは2016年から2020年にかけて、「ラーマーヤナ」の全7巻に対応して、7冊のフォトブック、アーリー・タイムズ(Early Times)、プロミス(The Promise)、エグザイル(Exile)、ダンダカ(Dandaka)、ハウリング・ウインズ(Howling Winds)、アフターライフ(Afterlife)、アマ(Amma)として2016年から2020年に出版される。

同じく「シークレット・ドア、アヴァニ、インド(Secret Door,Avani,India)」 (2016年、(C)Vasantha Yogananthan)。

ウイキペディアによると、「ラーマーヤナ」はヒンズー教の聖典の一つであり、サンスクリットで書かれ、全7巻、総行数は聖書にも並ぶ4万8000行に及ぶ。成立は紀元3世紀頃で、ヴァールミーキがヒンズー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編さんしたものとされる。この叙事詩は、ラーマ王子が、誘拐された妻シーターを奪還すべく大軍を率いて、ラークシャサの王ラーヴァナに挑む姿を描いている。ラーマーヤナの意味は「ラーマ王行状記」だ。

紀元3世紀当時のクシャトリヤ勢力の台頭を反映し、この叙事詩で活躍する人物はすべてクシャトリヤで、また、ラーマーヤナの核心部分は第2巻から第6巻とされ、その成立は紀元前4世紀から5世紀頃で、第1巻と第7巻よりも古いとされる。

シャネルによると、物語の登場人物は王国から14年間追放されたアヨーディヤーの王子ラーマとその妃シータ。国を追われて暮らしているうちに、シータはスリランカの王ラーヴァナにさらわれてしまう。これを機に、2つの王国は戦争に突入する。

「ラーマーヤナ」は古典的な叙事詩、恋物語、誘拐、戦争であると同時に哲学的な物語でもある。ヨガナンタンさんは、2013年からインドを北から南へ「ラーマーヤナ」の物語の道筋を辿り、現地の人々と生活を共にし、「ラーマーヤナ」からインスピレーションを受けて撮影した。ヨガナンタンさんの一連の作品は時空の旅という概念を核として、この古典作品を現代的に読み直すことを提案している。

ヴァサンタ・ヨガナンタンさんは1985年生まれ、ドキュメンタリーとフィクションの狭間を写し出す作品に取り組み、長年にわたり、自然光に基づく特有のカラーパレットを展開し、「二つの魂の神話(A Myth of Two Souls)」プロジェクト(2013年から2019年)では、地元のインド人画家とコラボして伝統的な手彩色を復活させた。本プロジェクトは、ヨガナンタンさんが2014年に共同設立した出版社「コース・コミュン(Chose Commune)」から、2016年から2020年の間に7冊の写真集として順次、刊行している。

2015年にマグナムフォトアワード、2016年にルヴァロワ賞、2017年にICP(国際写真センター)インフィニティアワード、FOAM タレント(Talents)、2018年にカメラ・クララ賞を受賞している。

3日18時30分からヴァサンタ・ヨガナンタンさんと写真家の川内倫子(かわうち・りんこ)さんによるトークイベントを開く。事前申し込みだが、すでに締め切っている。

開場時間は12時から19時30分、入場は無料。期間中、無休。

サニーヘルス、鮭のオメガ3脂肪酸、蛋白質で、ダイエット促進を

【銀座新聞ニュース=2019年8月31日】健康食品、美容商品、化粧品などの販売会社、サニーヘルス(中央区八重洲2-1-6、八重洲kビル、03-6701-3000)はこのほど、レポート「海のスーパーフード サケのダイエット効果」を発表した。

オメガ3脂肪酸やアスタキサンチンが含まれる鮭。生鮭の刺身やアルミホイル焼きで野菜を乗せて食べられる。しかし、塩鮭なら「迎え塩」で塩抜きしてから焼くと塩分を抑えられる。

国産のサケ(鮭)は秋が旬だが、チリ、ロシア、ノルウェーなどからの輸入品は1年中安定した価格で販売されている。サケは切り身で販売されているので下処理が不要で調理がしやすく、和朝食の定番としてだけでなく、夕食のメインとして食べることもできる、取り入れやすさに優れた食材といえる。しかもサケに含まれている成分は、ダイエット中に積極的に取り入れたいものばかりという。

サケにはどんなダイエット効果が期待できるのか。サケに含まれる脂肪のオメガ3脂肪酸・EPAは、食欲の抑制や血糖値を低下させる作用のある「GLP-1」というホルモンの分泌を促す働きがあるといわれている。このホルモンは言わば「やせホルモン」で、このホルモン分泌の多い人はやせやすく、少ない人は太りやすいと考えられている。日本人は欧米人よりもスリムな人が多く肥満率が低いが、それはEPAが多く含まれる魚をよく食べていることが一因という説もあるほど。

同じくサケに含まれているオメガ3脂肪酸であるDHAは、EPAと共に中性脂肪やコレステロール値を抑制、血管をしなやかにして血流を改善、月経前症候群(PMS)の緩和、冠動脈疾患の予防などの効果が認められており、ダイエットだけでなく健康面でもオメガ3脂肪酸は注目されている。

魚介類の中でも赤い色素を持つ生き物に含まれている「アスタキサンチン」という成分も特筆される。これは天然の赤い色素で、サケ以外には、サケの卵であるイクラや、カニやエビなどにも多く含まれる「カロテノイド」の一種だ。カロテノイド類は他に、ニンジンやカボチャなど緑黄色野菜に含まれる色素のベータカロテン、トマトの色素のリコピンなどがあり、これらの天然色素は総じて強い抗酸化作用を持っている。

これらのカロテノイドの抗酸化力は強力だが、それを大きく上回るといわれているのがアスタキサンチンなのだ。アスタキサンチンはベータカロテンの約40倍、ビタミンEの約1000倍もの抗酸化作用があることが分かっている。

サケの赤い色素に含まれるアスタキサンチンは活性酸素の発生を抑え除去してくれるため、生活習慣病のケアに役立ち、肥満に対しても有効だと考えられている。アスタキサンチンは活性酸素の発生を抑え除去してくれるため、生活習慣病のケアに役立ち、肥満に対しても有効とされている。脂質の酸化を抑制する働きがあり、脂質代謝アップや、運動中の脂質利用を高める効果があるという研究もあり、アスタキサンチンを摂取し運動を取り入れることで脂肪燃焼効率を高めることが期待できる。

アスタキサンチンが持つ強力な抗酸化力は、老化の原因となる活性酸素の発生を抑え、シワやメラニン色素の沈着を防ぎシミやそばかすなどから肌を守り、美肌効果が得られるほか、血行を促してターンオーバーを活性化させる働きがある。強く健やかに保たれることで美肌にも繋がる。

ダイエットに有効とされる上記のDHA、EPA、アスタキサンチンには、脳を活性化させる働きもあり、思考力や記憶力の向上に役立つ。年齢を重ねると、目に見える肌などだけでなく脳の働きも衰えていくものなので、サケを食べる機会を増やし、積極的に取り入れたい。

それでは、サケの選び方になると、朝食用には塩サケが用いられることが多いが、甘口であっても塩辛いこともある。塩漬けされているサケには多くの塩分が含まれており、むくみや生活習慣病などのリスクを高めてしまう可能性がある。自分で塩分をコントロールするためにも、塩サケではなく、生サケや刺身を選ぶようにしたい。

食べ方でお勧めなのは、野菜を一緒に取れるサケのホイル焼きだ。アルミホイルを広げて塩こしょうをした生サケを乗せ、その上に野菜やきのこをたっぷり乗せて包むだけ!野菜は玉ねぎ、にんじん、パプリカ、いんげんなど好きなものを乗せる。トースターで10分から15分も加熱すれば出来上がる。お好みでバターやしょうゆをあとから掛けることもできる。ダイエット中は意識的に摂取したいタンパク質も、サケならしっかり摂ることができるし、ビタミン、ミネラル各種も豊富という。

体は自分が食べた物から作られる。栄養を取りながら美しくスリムになりたい人は、是非とも日々の食卓にサケを取り入れてみたい。

生サケを購入して自分で味付けを調整できればいいが、塩サケしかない場合は塩抜きをする。薄目に作った塩水に浸し、ちょうどいい塩加減に調節することができる。これを「迎え塩」という。迎え塩の方法は、サケの塩加減にもよるが、濃度1%から1.5%くらいの塩水(水3カップに塩小さじ1.5杯)に1時間から2時間程度浸しておくだけ。旨味を逃がさずにゆっくりと塩分を抜くことができる。

ホットペッパー調べ7月外食0.8%増、単価増、単月過去最大

【銀座新聞ニュース=2019年8月31日】大手情報会社のリクルートグループの旅行、レジャー、飲食などの情報サービス会社、リクルートライフスタイル(千代田区丸の内1-9-2、03-6835-1000)の「食」に関する調査・研究機関「ホットペッパーグルメ外食総研」は8月30日に7月の「外食市場調査」を発表した。

サンドイッチ・チェーン「サブウェイ」は「晴海トリトン店」(中央区晴海1-8-16、晴海トリトン、03-3533-1188)や「日本橋兜町店」(中央区日本橋兜町11-2、カスタリア日本橋、03-5641-6221)など全店で10月8日まで「モーッツァレラタッカルビ」を販売中。モッツァレラチーズに、ゴーダチーズ、レッドチェダーチーズをブレンドし、鶏むね肉にコチュジャンや豆板醤を使ったソースを合わせた「タッカルビ」にのせて、パンで挟んでいる。価格は470円(税別)。

それによると、7月の首都圏・関西圏・東海圏(東名阪)の3圏域の外食市場規模は前年同月比0.8%増の3478億円と2カ月ぶりに前年を上回り、7月としては2013年の調査開始以来、過去最大の市場規模となった。

首都圏が44億円のプラス(2.0%増、2カ月ぶり増)で、関西圏が3億円のマイナス(0.3%減、3カ月連続減)、東海圏が13億円のマイナス(3.3%減、3カ月連続増)と関西圏と近畿圏が前年を下回った。

外食単価は前年比102円プラスの2632円と3カ月ぶりの上昇、外食頻度(外食回数)が4.23回で同0.1回減り、4カ月ぶりに下回り、外食実施率は同0.1ポイントダウンの76.0%と2カ月続けて下回った。

ホットペッパーグルメ外食総研では、7月は「前年に比べて日曜日が1日少なかった。また、また、特に首都圏などで前年に比べ、雨の日の日数が多く、天候に恵まれなかったため外食実施率や頻度に影響が出たと思われるが、外食単価の伸びがそれらを上回る影響だったため市場規模が前年比プラスとなった」としている。

主要16業種(調査は26分類)を対象とした外食市場規模は、「和食料理店(すし、割烹、料亭、郷土料理専門店等)」が22億円増の529億円、「バー、バル、ワインバー、ビアホール、パブ」が14億円増の153億円など増加が6業種だった。

これに対して、「居酒屋(焼鳥、串焼き、串揚げなどを含む)」が24億円減の771億円、
「焼肉、ステーキ、ハンバーグ等の専業店」が18億円減の334億円、「フレンチ、イタリアン料理店(ファミリーレストランを除く)」が24億円減の252億円など8業種が減少し、2業種が横ばいだった。

外食単価は「スナック、ナイトクラブ、キャバレー」が6532円高の1万4561円、「バー、バル、ワインバー、ビアホール、パブ」が219円高の4012円、「和食料理店(すし、割烹、料亭、郷土料理専門店等)」が188円高の4051円など上昇したのが13業種だった。

これに対して、「フレンチ、イタリアン料理店(ファミリーレストランを除く)」が385円安の4157円、「カラオケボックス」が23円安の2617円など、3業種が下落した。

調査は首都圏、関西圏、東海圏の各圏域中心部からの鉄道距離が、おおむね首都圏90分圏、関西圏80分圏、東海圏60分圏の市区町村に住む20歳から69歳までの男女約1万2000人を対象にインターネットによって実施した。

実施時期は事前調査が6月20日から7月2日まで42万4003件を対象に行い、回収数が3万1947件(回収率は7.5%)、本調査は8月1日から8日まで1万2105件を対象に実施し、有効回答数が9030件、回収率は74.6%だった。本調査での「外食」とは、夕方以降の時間帯で店で食事した場合を対象とし、1日2回までの外食を含んでいる。また、4月から調査対象に「イートイン」の選択肢を追加している。

加島美術が従軍画家の小早川秋声展、「国之楯」など、松竹京子らトーク

【銀座新聞ニュース=2019年8月30日】加島美術(中央区京橋3-3-2、03-3276-0700)は8月31日から9月16日まで「小早川秋声ー無限のひろがりと寂けさと」を開く。

加島美術で8月31日から9月16日まで開かれる「小早川秋声ー無限のひろがりと寂(しず)けさと」に展示される「国之楯」。陸軍が注文したが、最終的に受け取りを拒否した「国之楯」は1943年に完成後、題名を2度も変更し、絵にも手を加えて、1968年に最終的に「国之楯」として完成した。

大正から昭和にかけて活躍し、「国之楯」をはじめとした戦争画で知られる日本画家、小早川秋声(こばやかわ・しゅうせい、1885-1974)は、「従軍画家」として戦地に赴き、従軍中の兵士の「日常に寄り添った静的な戦争を描」いた。

加島美術によると、小早川秋声の兵士への「目線は慈しみと尊敬に満ち、激しい描写よりもかえって観る者の心の深い部分に直接訴えかけ」るという。ある種「無常のもの」として人の生死を捉え、戦争の残酷さや悲惨さを静かに見つめ、自身の息子と同年代の兵士をいとおしみ共に悲しんだ記憶が、作品として残っているかのようとしている。

小早川秋声は画壇に属さず、画商を通さなかったために、その画業に関する資料が少なく、展示会などでまとまって作品を見ることができる機会も少なかったという。今回は戦争画だけではなく、数々の洋行の経験が活かされた風景画なども展示する。また、戦時中、陸軍省が発注しながら、受け取りを拒否した「国之楯」も披露する。これらの作品はいずれも展示ケースなしで、直接鑑賞できる。

また、小早川秋声没後25年の1999年に編さんされた画集「秋声之譜」(企画・日南町美術館 発行・有限会社米子プリント社)を会期中に限り、通常定価3500円のところ、2000円で販売する。

同じく展示される「巴里所見」。絵に画家の感じた楽しい雰囲気が漂っている。

ウイキペディアによると、「国之楯」(1944年、1968年に一部改作)は日本兵の遺体を全面に取り上げた、戦争画の中でも異色の作品で、黒一色で塗りつぶされた背景に、胸の前で手を組んだ日本兵が大きく横たわっている。顔には「寄せ書き日の丸」が深く覆いかぶさり、この名も知れぬ兵士がお国のために死んだ事実が明瞭に示される。

当初は「軍神」という題名で、遺体となって横たわる兵士の頭部背後には金色の円光、背後には桜の花弁が降り積もるように山なりに描かれていた。元々は天覧に供するために陸軍省から依頼された作品で、師団長や将校たちは、この絵の前で思わず脱帽・敬礼し、搬出を手伝いに来た女性は絵を前に泣き崩れたという。

しかし、戦死者の画は戦争表現や「死の美化」に必須な一方、厭戦感を引き起こすとして、軍部・美術家共にひじょうに神経質な命題で、最終的に陸軍省は本作の受け取りを拒否し、小早川秋声の手元に残された。

このため、小早川秋声は背景を黒く塗りつぶし「大君の御楯」と改題、1968年に「太平洋戦争名画集 続」(ノーベル書房)に収録される際、一部改作して「国之楯」と再び題を変えて、現在の状態になった。こうした改題・改作は、戦中から戦後の社会通念の変化に伴い、尽忠報国から追悼・哀惜へと作品を転化させる操作とみられる。

小早川秋声は1885(明治18)年兵庫県神戸市生まれ、父親が鳥取県の光徳寺住職だったが、母親の実家、神戸市の九鬼隆義(くき・たかよし、1837-1891)子爵邸内で出産された。1894(明治27)年に9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入り、1900(明治33)年に務めを終え、光徳寺に帰郷するも、画家になる夢を捨てられず、寺を飛び出し、神戸の九鬼家に戻った。

1901(明治34)年に真宗高倉大学寮(現大谷大学)に入学、1907(明治40)年に特科隊一年志願兵として騎兵連隊に入隊、陸軍予備役少尉になり、その後の年次訓練などで大正期に陸軍中尉に昇進している。

1905(明治39)年4月に20歳で四条派に属する、後に京都絵画専門学校(現京都市立芸術大学)教授になる谷口香喬(たにぐち・こうきょう、1864-1915)の画塾「自邇会」に入り、1909(明治42)年に京都絵画専門学校開設の年に入学するも、同年に退学してしまう。水墨画を学ぶため中国へわたり、1年半ほど過ごし、中国の教育家、厳修(げん・しゅう、1860-1929)邸に寄宿しながら、北京皇室美術館で東洋美術を研究し、その合間に名勝古跡を巡る。1912(明治45)から日本美術協会展に出品する。

1915(大正4)年に山元春挙(やまもと・しゅんきょ、1872-1933)主催の「早苗会」に参加、のちに同会幹事を務めた。1914(大正3)年の第8回文展で初入選、以後、文展に4回、帝展に12回、新文展に3回入選し、一方で九鬼家の援助で経済的に恵まれ、当時の日本人としては異例なほど頻繁に海外へ出かけている。1914年から3年間、たびたび中国へ渡って東洋美術を研究し、1920(大正9)年からの3年間はヨーロッパを外遊、1921年にベルリン国立アルトムゼーム研究室で2年学び、帰途にはインドやエジプトにも立ち寄った。

1926(大正15)年3月から7月にかけては、日米親善のためアメリカに渡っており、絵は文展・帝展の中でも異彩を放ち、中国やヨーロッパに題材を求めた異国情緒漂う作品も珍しくない。私生活では1922(大正11)年に渡欧中ながら結婚、1923年の帰国後、京都市左京区下鴨森前町に豪邸を建てる。1931(昭和6)年の満州事変後から1943(昭和18)年まで、関東軍参謀部、陸軍省の委嘱により、従軍画家として中国や東南アジアなどの戦地に派遣され、戦争画を描いた。

一般に画家の従軍が本格化するのは、1937(昭和12)年の日中戦争後であり、小早川秋声の従軍はかなり早い。一般に戦争画は、華々しい戦闘場面や勇壮な日本兵の活躍を描いた作品が多いが、小早川秋声の作品にはそうした絵があまりなく、戦場での兵士の苦労や、兵士の死を悼む作品が散見される。終戦時の小早川秋声は、自分が「戦犯」として捕らえられるのを疑わなかったという。

小早川秋声は将官待遇で従軍していたため、戦地でもぜいたくができたはずだが、共に戦う者として自身にも厳しい従軍生活を課していた。従軍生活の長さからくる凍傷で体調を崩し、1944(昭和19)年に肺炎をこじらせ、1946(昭和21)年に日展委員となるも、多作や大作がこなせるまでは回復せず、戦後は依頼による仏画を手がけたといわれる。1974(昭和49)年に老衰により亡くなった。享年89歳。

9月7日15時から小早川秋声研究者の松竹京子(まつたけ・きょうこ)さんと「現代美術資料センター」を主宰する笹木繁男(ささき・しげお)さんによる「小早川秋声という画家:その画業」と題してトークイベントを開く。モデレーターは泉屋博古館分館(港区六本木1-5-1)の分館長の野地耕一郎(のじ・こういちろう)さんが担当する。

開場時間は10時から18時。入場はトークイベントも含めて無料。トークイベントは事前に電話などで申し込む。

注:「小早川秋声」の「声」と「国之楯」の「国」はいずれも正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。

注:「谷口香喬」の「喬」は正しくは左側に「山」へんがつきます。