丸善日本橋で濱田庄司、島岡達三ら「益子焼」展、川崎萌、横尾聡ら

【銀座新聞ニュース=2021年2月23日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月24日から3月2日まで3階ギャラリーで「第2回 丸善・益子焼の世界 濱田庄司・島岡達三 2人の人間国宝と現代作家展」を開く。

丸善・日本橋店で2月24日から3月2日まで開かれる「第2回 丸善・益子焼の世界 濱田庄司・島岡達三 2人の人間国宝と現代作家展」のフライヤー。

重要無形文化財保持者(人間国宝)で、民芸運動を推進した陶芸家、濱田庄司(1894-1978)と独自の「縄文象嵌(ぞうがん)」の世界を築いた陶芸家、島岡達三(1919-2007)を中心に、「浜田窯」を継承する濱田庄司の次男、濱田晋作(1929年生まれ)さんや「島岡製陶所」を継承する島岡達三の孫の島岡桂さんをはじめ、栃木県芳賀郡益子町の「益子焼(ましこやき)」の現代の陶芸家18人が作品約2000点を展示販売する。

今回、作品を出品する陶芸家は濱田庄司、濱田晋作さん、濱田晋作さんの次男、濱田友緒さん、島岡桂さんのほか、浅田恵美子さん、「utsuwa-MOKURI(ウツワ・モクリ)」を主宰する栗谷昌克さん、大塚一弘さん、大塚菜緒子さん、大塚雅淑さん。

加守田太郎さん、川崎萌さん、川島郁朗さん、「キマノ陶器」を主宰する木間伸哉さん木間彩さん夫婦、栗原節夫さん。

小林雄一さん、清水秀輝さん、薄田(すすきだ)いとさん、西山奈津さん、萩原芳典さん、福島晋平さん、横尾聡さん。

益子焼は栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器で、江戸時代末期の嘉永年間(1848年から1855年)に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎(1828-1876)が益子に窯を築いたことにより始まったとされている。

同じく出品作家たちを紹介するフライヤー。

益子焼の陶土は、豊富にあるものの、肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ、火鉢、壺などの日用品として制作された。その後、1927年から創作活動を始めた濱田庄司によって花器や茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られた。1959年には、加守田章二(1933-1983)が開いた窯により民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加えられた。1979年には通産省(現経産省)から伝統的工芸品に指定された。

益子焼は砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもち、材料の性質上割れやすく、重いという欠点がある。益子焼のもっとも基本的な釉薬(ゆうやく)は漆黒(しっこく)や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色(あめいろ)を出す鉄釉(てつゆう、てぐすり)で、石材粉や古鉄粉を釉薬にし、犬毛筆で色づけを行うため、重厚な色合いとぼってりとした肌触りに特徴がある。こうした昔ながらの施釉は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。

民芸運動以来、濱田庄司が得意とした杓掛け、流し掛け、掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが知られる。また、信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い。

同じく出品作家たちを紹介するフライヤー。

栃木県益子町観光協会によると、現在、窯元は約250、陶器店は50店あり、春(2021年4月29日から5月5日まで予定されていたが、新型コロナにより中止)と秋に陶器市が開かれる。

益子陶器市は1966年から始まり、例年、春のゴールデンウイークと秋の11月3日前後に開かれている。販売店約50店舗の他、約550のテントが立ち並び、伝統的な益子焼からカップや皿などの日用品、美術品まで販売される。焼物だけでなく、地元農産物や特産品の販売も行われ、春秋あわせて約60万人の人出がある。

ウイキペディアによると、濱田庄司は1894(明治27)年神奈川県橘樹郡高津村(現川崎市)溝ノ口の母の実家で生まれ、東京府立一中(現日比谷高校)を経て、1916(大正5)年に東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科を卒業、在学時は」板谷波山(1872-1963)に師事し、窯業の基礎科学を学び、卒業後は2年先輩の河井寛次郎(1890-1966)と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。この頃、柳宗悦(1889-1961)、富本憲吉(1886-1963)、陶芸家、バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach、1887-1979)の知遇を得る。

1920(大正9)年に英国に帰国するリーチに同行、1922(大正11)年に共同してコーンウォール州(Cornwall)セント・アイヴス(St Ives)に「リーチポタリー(Leach Pottery)」を築窯した。1923(大正12)年にロンドンで個展を開き、1924(大正13)年に帰国し、しばらくは沖縄・壺屋窯などで学び、1930(昭和5)年からそれまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶をはじめた。

ほとんど手轆轤(ろくろ)のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。戦後、1955年2月15日には第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝、工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定され、1964年に紫綬褒章、1968年に文化勲章を受章した。

柳宗悦の流れをうけて民芸運動に熱心であり、1961年の柳の没後は日本民藝館の第2代館長に就任した。1970年の大阪万博の日本民芸館パビリオンの名誉館長を経て、1972年に大阪日本民藝館の初代館長に就任した。1977年には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館した。1978年1月5日に益子にて没。享年83歳。墓所は川崎市の宗隆寺。

島岡達三は1919(大正8)年東京市芝区愛宕町(現東京都港区愛宕)生まれ、1938年(昭和13)年に府立高校(後に都立高等学校、東京都立大学を経て、現在、首都大学東京)在学中に日本民藝館を訪れ、民芸の美に目ざめ、1941(昭和16)年に東京工業大学窯業学科を卒業、1942年に「赤羽工兵隊」に入営、1943年にビルマ(現ミャンマー)に派遣される。

1946年6月に濱田庄司門下となり、1950年に栃木県窯業指導所に勤務、1953年に退職し、益子に住居と窯を構え、1954年に初窯をたいた。1962年に日本民芸館賞を受賞、1968年 夏に米ロングビーチ州立大学、サン・ディエゴ州立大学夏期講座に招かれ、渡米し、ヨーロッパを経て帰国した。1980年に栃木県文化功労章、1994年に日本陶磁協会賞金賞、1996年に民芸陶器(縄文象嵌)で国指定の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、1999年に勲4等旭日小綬章、2007年12月11日没、享年88歳。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。入場は無料。

大丸東京で24K大判、小判、丸の内駅舎の図、総額3億円

【銀座新聞ニュース=2021年2月22日】国内百貨店業界第2位の流通グループ、J.フロントリテイリング(中央区八重洲2-1-1)傘下の大丸松坂屋百貨店(江東区木場2-18-11)が運営する大丸東京店(千代田区丸の内1-9-1、03-3212-8011)は2月24日から3月2日まで1階イベントスペースで「金の祭典」を開く。

大丸東京店で2月24日から3月2日まで開かれる「金の祭典」で販売される24Kの大判。

財務省が2019年に新1万円札を2024年に発行することを決め、その際に新しいデザインを公表した。表は肖像に、第一国立銀行や東京商法会議所、東京株式取引所をはじめ、500以上の企業や経済団体の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」といわれた渋沢栄一(しぶさわ・えいいち、1840-1931)を採用、裏に東京駅の丸の内駅舎(1914=大正3=年12月20日開業)をデザインした。

大丸東京店として初めて開く「金の祭典」では、丸の内駅舎をモチーフにした24金の大判と小判を販売し、コロナの終息を願って「アマビエ」の金も登場する。

大丸によると、資産価値が20年で約6倍となっている地金を手に入れる人が増えており、総点数100点、総額3億円の金を一堂に会し、展示即売する。

同じく販売されるフレームに入っているアマビエ金。

24金製の大判は76ミリX126ミリ、100グラムで税込148万円(専用桐箱入り)、小判は43ミリX73ミリ、30グラムで49万8000円(専用桐箱入り)。「アマビエM5号」はフレームサイズが縦178ミリ×横148ミリ×厚さ17ミリ、16グラムで49万5000円。

また、ペットの写真があれば、オリジナルの金メダルも注文を受けて生産する。直径25ミリ、厚さ1ミリ、重さ9グラムで12万円。

ウイキペディアによると、東京駅は、東京において各方面別に分かれていたターミナル駅の中間を結んで中央停車場を設置する構想から始まり、1914(大正3)年12月20日に開業した。設計は辰野金吾(たつの・きんご、1854-1919)、建設工事は大林組が手がけた。

基礎工事の着手から完成まで6年9カ月(1年1カ月あまりの工事中断があり、それを除くと、実質5年7カ月)かかり、工費が「東京停車場建築工事報告」で集計の時点で282万2005円で、工事中であったステーションホテルの費用約16万円を含めると約298万円に達した。また、駅舎や高架線、プラットホーム、通路などを含めた中央停車場の総工費は407万1210円と集計されている。

2024年に発行される新1万円札の裏に描かれている丸の内駅舎。

その後、中央本線の乗り入れや山手線の環状運転の開始などにより利用客は急速に増加していき、昭和初期にはプラットホームなどの増設工事に着手した。

しかし、大東亜戦争(1941年から1945年)により、すべては完成せず、戦争末期には空襲を受けて丸の内駅舎を焼失した。戦後、丸の内駅舎の復旧が行われるとともに、中止されていた増設工事が再開された。1964年10月1日には東海道新幹線が開通し、新幹線のターミナルともなった。

さらに地下鉄丸ノ内線の乗り入れ、総武・横須賀線の地下ホームの開業、京葉線の乗り入れと地下にもホームの増設が進んだ。1991年6月20日に東北新幹線が開通し、東北・上越方面へのターミナルともなった。2012年10月に、戦災で応急復旧したままであった丸の内駅舎の復原工事が完成している。

「大判」は、広義には16世紀以降の日本において生産された延金(のしきん、のべきん:槌やローラで薄く広げた金塊)の内、楕円形で大型のものをいう。小判が単に「金」と呼ばれるのに対し、大判は特に「黄金」と呼ばれ、大判金(おおばんきん)ともいう。

金貨として規格化されたものは、1588(天正16)年、豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし、1537-1598)の命で京金工の後藤四郎兵衛家(ごとう・しろうべえ、)が製造したのが始まりとされる。

以後、時の権力者の命により1862(文久2)年まで後藤家(京都、後に江戸)が製造し続けた。量目(質量)は、万延年間(1860年)以降に製造されたものを除き、京目10両(44匁=もんめ、約165グラム)と一貫していた計数貨幣であったが、その後は品位(純金含有量)が時代により変化したため、秤量(しょうりょう)貨幣の性質を帯びた。

幣価は「金一枚」であり、小判の通貨単位「両」とは異なり、小判との交換比率は純金量を参考に大判相場が決められた(江戸時代の一時期のみは公定価格が存在した)。

この判金の量目は金一枚(44匁)を標準とするもので、高額の代金の支払い、借金の返済の場合は金屋において判金を購入し支払いに当てるのが当時のしきたりであった。戦国時代頃の金一枚はおよそ米40石から50石に相当したという。

また戦さにおいて功績を挙げた者に対する褒美としても用いられ、江戸時代にもこの伝統が受け継がれ、恩賞、贈答用には金一枚を単位とする大判が用いられた。中でも京都の金細工師である後藤四郎兵衛家に対する信頼は厚く、安土桃山時代には主に豊臣家の、江戸時代には必用ある毎に大判座を開設し、徳川家の大判の鋳造を請け負った。

1874(明治7)年、小判や分・朱単位の金銀貨とともに、大判についても天正大判金を除き、それぞれの含有金銀量に基づいて新貨幣(円・銭・厘)との交換レートが定められた。

小判は、江戸時代に流通した金貨の一種で、金座で用いられた公式な呼称は小判であり「三貨図彙」では「小判」と明記されているが、「金銀図録」や「大日本貨幣史」などの古銭書には小判金(こばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では小判金の名称が広く用いられている。当時の文書には単に金と記されていることが多く、「金百両」などと表記された。

一般的に小判は「金貨」とされ、純金のように見えるものが多いが、実際は金銀合金で、外見上、金色に見えるのは、「色揚げ」と称して表面の銀を薬品と共に加熱して塩化銀として取り去る処理を施した結果である。

江戸幕府を開くに先立ち、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)は大判より小型のものとし、墨書を極印に改め一般流通を想定した通貨を発行する構想を持っており、1601(慶長6)年に徳川家康が後藤家に命じて鋳造させた慶長小判を嚆矢とし、1860(万延元)年発行の万延小判まで10種が発行された。

「アマビエ」は日本に伝わる妖怪で、海中から光をかがやかせるなどの現象を起こし、豊作や疫病などに関する予言をしたとされている。江戸時代後期に作られたとみられる瓦版に類する刷り物に、絵と文が記されており、肥後国(現熊本県)の夜ごとに海に光り物がおこったため、土地の役人がおもむいたところ、「アマビエ」と名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6カ年の間は諸国で豊作がつづく。しかし、同時に疫病が流行するから、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行ったとされる。

瓦版に弘化3(1846)年4月中旬という記載があることから、その年に出版されたものであると考えられている。姿形については添えられた挿し絵(アマビエを目撃したとされる役人がその場で姿を写した「アマビエの絵」が江戸に送られて来ており、その「写し」であると文には書かれている)が存在しているが、本文には「図の如く(原文「づの如く」)」とのみ記載されており、具体的な言葉ではどのようなかたちのものであったかについての特徴は書き留められていない。

アマビエについての記録の類は、この1種類の瓦版でしか確認されていない(熊本県にそのような目撃譚や伝説が伝承されて来た事実も確認されていない)が、類似性の高い内容が記載されている「アマビコ」と呼ばれる妖怪の資料群との比較から、アマビコが誤記された例のひとつではないかという説が、1999年に民俗学者の湯本豪一(ゆもと・こういち)さんによって指摘されている。

アマビエは江戸時代に制作された瓦版のひとつとして、1970年代以降に写真図版つきで書籍などでしばしば紹介されており、2000年代以降は、湯本豪一さんによる他の同趣向の妖怪やアマビコを中心とした新たな資料紹介がつづき、2004年に川崎市市民ミュージアムでおこなわれた「日本の幻獣-未確認生物出現録」という資料展の会期中には、アリエ、アマビエなどのフィギュアがグッズ販売された。

2020年2月から3月にかけて、新型コロナウイルス感染症に関連して「アマビエのイラストを描く」という行為が広く創作活動の場で注目され、「新型コロナ退散の願いを込めた作品」としてアマビエがさまざまに創作のうえで作られる行動(アマビエチャレンジ)が見られた。

また、4月7日からは厚労省が新型コロナウイルス感染症のウエブ向け対策啓発の広報アイコンとしてアマビエのイラストを用い、同じイラストが6月19日から厚労省が配信している「COCOA(ココア)」の画面にも同じものが用いられている。

営業時間は10時から20時。

丸善丸の内で小倉遊亀、杉山寧、岡鹿之助、中川一政ら入札展

【銀座新聞ニュース=2021年2月21日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ内、03-5288-8881)は2月24日から3月9日まで4階ギャラリーで「丸善絵画入札会」を開く。

丸善・丸の内本店で2月24日から3月9日まで開かれる「絵画入札会」に出品される加山又造の「微風」(木版画、2003年)。

丸善・丸の内本店恒例の春と秋に行う入札会で、内外の巨匠から現代作家まで約200点を展示し、オークション方式で販売する。

出品されるのは日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現した加山又造(1927-2004)、女性画や静物を生き生きと描いた小倉遊亀(1895-2000)、日本画家でエジプトやインドなどの古代遺跡や神像、抽象画や裸婦など従来の日本画にはなかった題材を描いたことで知られる杉山寧(1909-1993)、日本画家で東京芸術学舎の学舎長の千住博(1958年生まれ)さん。

舞妓やエキゾティックな女性画、春夏秋冬の花々を描く日本画家で、京都市立芸術大学客員教授の森田りえ子さん(1955年生まれ)、「人物画」シリーズや花鳥画を得意とし、桜、牡丹の絵画で知られる東京芸術大学名誉教授の中島千波(1945年生まれ)さん、ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術や琳派、南画といった日本の伝統的な美術を取り入れ、装飾的な世界で知られた洋画家の梅原龍三郎(1888-1986)、点描画法により、幻想的な風景画で知られる洋画家の岡鹿之助(1898-1978)、バラの絵で知られる洋画家、中川一政(1893-1991)。

孤高の洋画家で自宅の虫や花を描き続けた熊谷守一(1880-1977)、独学で木版画技法を確立し、浮世絵版画技法や西洋の近代的造形を取り入れ、日本的感情を表現した斎藤清(1907-1997)、具象絵画を代表するフランスの画家、ベルナール・ビュッフェ(Bernard Buffet、1928-1999)、具象系派の画家で、軽快なタッチと鮮やかな色彩で静物、風景、人物などのリトグラフを制作したポール・アイズピリ(Paul Aizpiri、1919-2016)、アメリカ在住でレーザーやホログラムを駆使した現代美術家、ヒロ・ヤマガタ(1948年生まれ)さんら。

開場時間は9時から21時(最終日は16時)まで。入場は無料。

サニーヘルス、完全栄養食は補助食品、基本は魚、肉等で蛋白質摂取

【銀座新聞ニュース=2021年2月20日】健康食品、美容商品、化粧品などの販売会社、サニーヘルス(中央区八重洲2-1-6、八重洲kビル、03-6701-3000)はこのほど、レポート「国内外のメーカーから続々発売『完全栄養食』の解説」を発表した。

厚労省の「日本人の食事摂取基準」に定められている必須栄養素を不足なく補える食品が、完全栄養食の定義だが、あくまで補助食品にとどめたい。

最近、「完全栄養食」というワードを、インターネットを中心に目にする機会が増えた。その名から食品であることはわかるものの、なんとなくイメージが湧くような、でも詳しくはよくわからないという人が多いだろう。国内外のメーカーから続々と発売される「完全栄養食」とは一体どんなものなのか。

●完全栄養食とはどんなもの?

ここ数年で、「完全栄養食」または「完全食」と呼ばれる食品の発売が相次いでいる。完全栄養食とは、健康を維持するために必要な栄養素をすべて含んだ食品のことだ。厚生労働省の「日本人の食事摂取基準」に定められている必須栄養素を不足なく補える食品が、完全栄養食の定義といえる。

玄米や卵など、単体で栄養価の優れたものも昔から完全栄養食や完全食と言われてきたが、それだけでは不足する栄養素もある。現代においての完全栄養食とは、栄養を添加することでその点をクリアし、一つで栄養を完全に補える食品として販売されている。

●完全栄養食はどんな人に向いている?

完全栄養食の形態としては、パウダーを水や牛乳でシェイクして飲むドリンクタイプや、生地に栄養を閉じ込めた麺やパスタタイプ、パンタイプなどが代表的な種類だ。

こうした商品は、ダイエット中や美容意識の高い人、筋肉を付けたい人、そして何より、時間と手間を掛けずに効率良く栄養を摂取したい人に向いている。栄養の知識や調理の技術がなくても、誰もが簡単に栄養バランスを整えることができることが最大のメリットだ。栄養面や効率が重視されている食品ではあるものの、食べ物としての満足度はどうなのか?

ダイエットでやせるため、筋肉をつけるため、これらに共通する必須の栄養素はタンパク質で、食事量を減らしても、タンパク質は必要量を摂取したい。そのためにも魚、肉、大豆、大豆製品を食べるのが食事の基本といえる。

完全栄養食は、食べ物もしくは飲み物であるからには、栄養を満たすだけでなく、味の面での満足感も得たいと考えるのが一般的だろう。しかし、現在のところ、商品によって味へのこだわりには大きな差があり、場合によっては味を重視していないと言い切っているものもあるようだ。

完全栄養食は利便性と栄養の摂取効率の良さが売りであるとはいえ、味や価格などの要素を含めた、総合的にバランスのよい商品を選びたい。

●完全栄養食=万能?

多くの完全栄養食は、糖質(炭水化物)は控えめに、それ以外の栄養素が必要量満たされるように作られている。しかしながら、野菜など素材そのものに含まれるフィトケミカル(微量栄養素)や抗酸化物質、さらには未解明の栄養素などは期待できない。

このため、完全栄養食だけを食べていれば体が健やかに保たれたり、健康増進効果があったりということではなく、あくまでも補助的に食べるようにしたい。通常の食事からでないと摂取することができない栄養素もあるので、完全栄養食が万能ということではないからだ。

●やせるために必要な栄養素とは?

人間の体は多くの種類の栄養素を必要としている中でも、ダイエットでやせるため、筋肉をつけるため、美肌のため、これらに共通する必須の栄養素は「タンパク質」。食事量を減らしたとしても、タンパク質は必要量をキープしたい。

なぜなら、タンパク質は体を動かすために必要であり、筋肉、内臓、肌、血液など、体を作る元となる基本成分のひとつだからだ。体の機能を正常に保つのに欠かせない体内酵素を構成しているのもまたタンパク質だし、多くのホルモン、神経伝達物質や美肌に必須のコラーゲンの原材料にもなる。ほかに、免疫力をキープして病気を予防したり、心の健康に関わったりなど、その働きは多種多様だ。

タンパク質の摂取量が不足すると、例えば筋トレをしても筋肉が増えないだけでなく、筋肉が分解され減少してしまう。また、骨や血液の生成にも影響を及ぼし、貧血の原因になることもある。貧血になれば代謝が下がり、肌の潤いは失われる。

ダイエット面でいえば、筋肉量が減少すると特に運動しなくても生命維持のため、自動的に体で消費されるカロリー(基礎代謝量)が落ち、やせにくい体になってしまう。

しかも、やせにくくなるだけでなく、同じ食事量なら基礎代謝量が落ちた分だけ体内でカロリーが余るようになり、余剰分は体脂肪として蓄積されるようになる。体脂肪が増えないようにするためには、余剰カロリーを運動などによって消費しなければならない。つまり、基礎代謝量が落ちると、太りやすく、やせにくい体になってしまうことになる。

ひとくちにタンパク質といっても食品によって性質が異なり、体内での利用効率は違ってくる。タンパク質は複数のアミノ酸によって構成されていて、食品によってそのバランスや量が違うので、1種類の食品からばかりではなく、複数の食品を組み合わせることが重要となる。

魚、肉、大豆、大豆製品が主なタンパク源となり、目安量は、1食あたり自分の手のひら(指を除く)1枚分だ。動物性、植物性タンパク質の一方に偏ることなく、まんべんなく食べるようにしたい。

完全栄養食の便利さは、忙しい人には特に重宝されるだろう。しかし、長期間にわたり、これを食事の中心とすることは勧められない。通常の食事を取ることが難しい場合に限り、完全栄養食にするというのが、健康的な取り入れ方ではないだろうか。

SUSHI BARでいくら丼、ロール寿司、ちらしなど4段弁当

【銀座新聞ニュース=2021年2月19日】婚礼関連事業の大手、ノバレーゼ(中央区銀座1-8-14、銀座YOMIKOビル、03-5524-1122)は、直営の創作和食店「SHARI THE TOKYO SUSHI BAR」(中央区銀座2-4-18、アルボーレ銀座ビル、050-5212-7574)で、持ち帰り用の「豪華海鮮四段重弁当」を予約販売している。

ノバレーゼ直営の「SHARI THE TOKYO SUSHI BAR(シャリザトーキョースシバー)」で予約販売している持ち帰り用の「豪華海鮮四段重弁当」。

ノバレーゼは2016年から花見の季節に合わせて、「SHARI THE TOKYO SUSHI BAR(シャリザトーキョースシバー)」の看板メニューの新作ロール寿司などを販売してきたが、今回は新型コロナの感染拡大もあり、花見が厳しい状況にあり、「いくら丼」やちらし寿司、ロール寿司、にぎり寿司を4段重ねにした弁当をテイクアウトのみで、予約販売する。

1段目(最上段)は、イクラのしょう油漬けを、ご飯が見えないほどに敷き詰めた「いくら丼」で、ご飯にサケを混ぜてあり、「親子丼」の形にしている。

2段目はブリ、イカ、サーモン、タイ、イクラ、トビコの6種の海鮮と、玉子、キュウリ、ダイコン、ニンジンを具材に使用し、シャリに細かく刻んだ大葉やガリ、たくあんなどを混ぜ込むこんだ「ちらし寿司」。

3段目は、3センチサイズのカラフルなロール寿司9種9貫を詰め合わせてある。マグロとたくあんをたたいて巻いた「トロタクロール」やクリームチーズ、玉子、きゅうり、カニカマ、生ハムを巻いた「イタリアンロール」、サーモン、クリームチーズ、カニカマ、きゅうり、玉子を巻いた「サーモンロール」といった定番商品を食べ比べできる。

4段目は、握り寿司4種8貫を詰めてある。一押しのネタは、旬で脂がのったブリで、ほかに、イカ、穴子、サーモンを2貫ずつ入れている。

4段の弁当は、4、5人用で6500円(税込)。ほかに、鮭いくら御飯、ロール寿司、握り寿司の3段重(3、4人用5800円)、ちらし寿司とロール寿司、握り寿司の3段重(3、4人用4800円)もある。

「SHARI THE TOKYO SUSHI BAR」は2011年2月に開店、2018年11月にノバレーゼから分社化した100%出資の子会社「ブロスダイニング」(当初はノバレーゼレストラン、2019年1月1日付で現社名に変更、中央区銀座1-8-14、03-6685-5888)が2019年1月から運営している。

今回は店頭(12時から20時、緊急事態宣言下では15時まで)、もしくは電話予約(10時から20時)販売のみで、店頭での引き渡しは12時から20時。月曜日は休み。