【銀座新聞ニュース=2011年8月11日】銀座シネパトス(中央区銀座4-8-7先、三原橋地下街、03-3561-4660)は8月27日に「追悼 岡田茂『人生劇場 飛車角』上映会」を開催する。
東映の社長、会長を歴任し、「日本映画界のドン」といわれた岡田茂(おかだ・しげる、1924-2011)が5月9日に87歳で亡くなったのを追悼(ついとう)して、当時、東京撮影所長だった岡田茂自らが企画した任侠映画シリーズの第1作となった鶴田浩二(つるた・こうじ、1924-1987)主演の「人生劇場 飛車角」(1963年)を上映する。
上映終了後に監督で舞台演出家の沢島忠(さわじま・ただし)さん、映画プロデューサーの吉田達(よしだ・とおる)さん、プロデューサーの坂上順(さかがみ・じゅん)さんによるトークイベントを開催する。
「人生劇場 飛車角」は尾崎士郎(おざき・しろう、1898-1964)原作の小説「人生劇場」で主人公の青成瓢吉(あおなり・ひょうきち)の脇役のひとりでヤクザの飛車角(ひしゃかく、小山角太郎)を主人公に据えた作品だ。
ウイキペディアによると、中核の京都撮影所長から東京撮影所に左遷させられた岡田茂、監督の沢島忠(さわしま・ただし)さん、主役の鶴田浩二、その相方の佐久間良子(さくま・よしこ)さんとも低迷期にあり、「三すくみの背水の陣」と沢島忠さんが語る中で撮影された。その後、東映では岡田茂とプロデューサーで、女優、富司純子さんの実父、俊藤浩滋(しゅんどう・こうじ、1916-2001)が組んで「任侠映画」をシリーズ化し、熱狂的ブームを起こした。
岡田茂は1924年広島県賀茂郡西条町(現東広島市西条)生まれ、長男が現東映社長の岡田裕介(おかだ・ゆうすけ)さん、長女が生命倫理学者でコメンテーターの高木美也子(たかぎ・みやこ)さん。旧制広島高校(現広島大学)文科甲一を首席で卒業、1944年に東京帝国大学経済学部に入学、学徒出陣し、岩沼陸軍航空隊(現仙台空港内)で戦闘機の整備の任務に就き、終戦後に復学し、1947年に東大経済学部を卒業、東横映画に入社、1948年に24歳で製作主任、1950年に企画した「日本戦没学生の手記 きけ、わだつみの声」がヒットした。
1948年に京都撮影所に従業員組合(労組)が創立され、書記長、1949年に委員長に就任、1949年に東横映画、東京映画配給、太泉映画が合併し、「東映」が誕生、京都撮影所製作課長、東映のゼネラルマネージャーのような存在となり、NHKのラジオドラマで人気だった「笛吹童子」シリーズ、「里見八犬伝」シリーズなど、子ども向け東映娯楽版をヒットさせ、暴力団山口組系の神戸芸能社(前身は山口組興行部)に所属していた美空ひばり(みそら・ひばり、1937-1989)を引き抜き、売り出し、1956年には年間配給収入でトップとなった。
1960年に京都撮影所長、将来のテレビの普及を予想し、テレビ制作を増やし、1962年に取締役東京撮影所長、低迷していた東映現代劇を「現代アクション路線」で復活させ、ギャングシリーズを開拓し、俊藤浩滋と組んで「人生劇場 飛車角」を初めとする任侠映画路線に転換させ、その後の「実録ヤクザ映画」路線、「鬼龍院花子の生涯」(1982年)などの「女性文芸」路線、「極道の妻たち」シリーズ、「キイハンター」や「Gメン1975」などの「ネオやくざ路線」に引き継がれ、後に「Vシネマ」という新ジャンルまで切り開いた。
1964年に京都撮影所長に再び就任、大リストラを断行し、時代劇制作から任侠映画路線に転換し、時代劇はテレビのみで制作することにし、同年に東映京都テレビプロダクションを設立、社長を兼任、ギャラの高い役者や監督を新会社に移したり、東京撮影所に配置転換したり、助監督を東映テレビや東映動画へ異動させた。これにより、テレビ時代劇が映画と並ぶ事業の柱とする素地を作り、他の映画会社がテレビに消極的な中、東映のシェアは50パーセントを超え、現在でも40パーセント台を確保している。
1966年に常務、1968年に制作から営業まで一貫して統括する映画本部長に就任、いわゆる「エログロ路線」や「好色路線」が本格化させ、東急グループから離脱、1971年にテレビ本部長も兼務、1971年に社長の大川博(おおかわ・ひろし、1896-1971)が亡くなると、社長に就任、東映動画(現東映アニメーション)会長も兼任、野球の東映フライヤーズを日拓ホームに譲渡、全国に32カ所あったボウリング場「東映ボウリングセンター」の大半を売った。1972年に事業部制を導入、1975年に撮影所の有効利用策として、テーマパークのはしりといわれる「東映太秦映画村」をオープンした。
1972年に洋画部(東映洋画)を新設、香港製のカンフー映画と邦画を扱い、洋画のみを扱う「東映ユニバースフィルム」(1981年発足、1984年に「東映クラシックフィルム」に改称)があり、「ドラゴンへの道」(1972年)などを配給した。テレビでは商業的に失敗した劇場版「宇宙戦艦ヤマト」(1977年)を買い付け、一連の宇宙戦艦ヤマトシリーズ、「銀河鉄道999」(1979年)などの松本零士(まつもと・れいじ)さんの作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げたという。
1980年に東急グループの興行会社「東急レクリエーション」社長に就任、16年ぶりに東急グループに復縁し、1993年に東映会長、1971年から1995年まで「日本映画製作者連盟」会長、テレビ朝日会長なども務めた。1978年に日本アカデミー賞の創設に尽力、2007年度に日本アカデミー賞に「岡田茂賞」が新設された。1984年に藍綬褒章(らんじゅほうしょう)、1995年に勲二等瑞宝章などを受賞している。その後、相談役、名誉会長となり、2006年7月に名誉会長に就任し、2011年5月9日に肺炎のため、死去した。
沢島忠さんは1926年滋賀県愛知郡湖東町(現東近江市)生まれ、1948年に同志社外事専門学校をを卒業、劇団「エランヴィタール」に参加、演出助手となり、1950年に劇団が解散、東映の前身、東横映画助監督部に入社、東映誕生後は東映京都撮影所に勤務、1955年に高松富久子(たかまつ・ふくこ、1921-1990)と結婚、後に「暴れん坊兄弟」(1960年)などの脚本家「鷹沢和善」(富久子との共同ペンネーム)として夫婦で脚本を手がけた。
1957年に監督に昇進、「忍術御前試合」で監督デビュー、1967年に東映との契約を解消、東京映画の専属となり、1971年に「コマ・プロダクション」を設立、1977年に「巨人軍物語 進め!!栄光へ」を最後に監督をやめて、舞台演出家となり、現在も演出家として活動している。
吉田達さんは1935年生まれ、1958年に東映に入社、東京企画部に所属、1960年に「大空の無法者」を企画したのをはじめ、任侠シリーズや不良番長シリーズなどを手がけ、1977年に「人間の証明」、その後、劇場版「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」などをプロデュースし、1983年に東映ビデオに移り、現在もプロデューサーとして活躍している。
坂上順さんは1939年生まれ、1962年に東映に入社、東京撮影所製作部進行係に配属され、1993年に東京撮影所代理、1996年に取締役東京撮影所長、2003年に常務映画企画製作担当、2004年に映像本部副本部長、2008年に退任、東映京都スタジオ社長、2010年に退任、「スタジオ88」を設立、29012年に公開予定の「はやぶさ 遥かなる帰還」のエグゼクティブプロデューサーを務めている。
開演時間は10時30分、料金は1500円。ぴあシネマリザーブシートは1700円。