ヴァニラで空山基、愛実ら「無惨絵」、日野原と田亀「芳年」対談

【銀座新聞ニュース=2019年2月16日】ヴァニラ画廊(中央区銀座8-10-7、東成ビル、03-5568-1233)は2月19日から3月3日まで「無惨絵展-cruel and beauty」を開く。

ヴァニラ画廊で2月19日から3月3日まで開かれる「無惨絵展-クリュエル・アンド・ビューティ(cruel and beauty)」のフライヤー。

江戸時代から花開いてきた「無惨絵(むざんえ)」の真髄である「無惨・残酷絵」をテーマに、その情景の奥の妖しい美しさに焦点をあてた作品を展示する。空山基(そらやま・はじめ)さんら現代作家13人が「凄惨極まる時、それは究極の美と転じ、その美しさに代えがたい恍惚と抑圧からの解放を感じるからこそ、無惨・残酷というテーマは時代を超えて人々を魅了する」という作品を披露する。

今回、出品するのは1947年愛媛県今治市生まれ、四国学院大学文学部英文科、中央美術学園を卒業、旭通信制作部を経て、ソニーの「アイボ(AIBO)」のデザインを手がけ、グッドデザイン賞グランプリ、メディア芸術祭グランプリを受賞した空山基さんをはじめ、イラスト、マンガ家の旭(あさひ)さん、2004年から人形教室「ドールスペースピグマリオン」で学び、吉田良(よしだ・りょう)さんに師事し、その後、さまざまなグループ展に出品し、2013年にヴァニラ画廊で初個展、2014年にホルベイン賞を受賞している人形作家の愛実(まなみ)さん。

1969年東京都生まれ、主に成人を対象としたマンガを中心に描く駕籠真太郎(かご・しんたろう)さん、1967年東京都生まれ、16歳より独学で油絵をはじめ、大学法学部を中退、さまざまな職を経て、現在、技術設計士をしながら絵画を制作しているキジメッカさん。

2009年に日本の音楽家、マチゲリータさんの楽曲「ロッテンガールグロテスクロマンス」にイラストを提供し、2012年にゴアグロ・スケートデッキ・アート展に参加、2013年にグロテスクTシャツアート展、2014年からアンダーグラウンド・アートフェスティバル「艶惨」に参加した、オカルト、ホラー、スプラッターを愛するイラストレーター、画家で、さし絵やゲームイラスト、CDジャケット、フライヤー、Tシャツデザインなどを手がけるゲンキ(GENk)さん。

1988年台湾・高雄生まれ、2011年から同人誌の活動をはじめ、パソコンをメインの技法とし、イラストを中心に活動し、2012年に張鶴齡(ちょう・かくれい)さんの球体関節人形アトリエで人形創作を学び、球体関節人形も制作し、2014年にゲームメーカーにてCGデザイナーを務め、2016年に入れ墨を学び、現在は刺青師としても活動している群(ぐん)さん。

1970年2月千葉県生まれ、1993年に多摩美術大学油画専攻を卒業、「無限の住人」で知られる沙村広明(さむら・ひろあき)さん、1946年北海道生まれ、1969年から銅版画を独学で学び、1972年に「日本版画協会」に出品し、1973年に版画グランプリ展賞を受賞、1983年にセントラル版画大賞展受賞、1983年から1984年まで文化庁在外研修派遣員としてアメリカ、西ドイツで学び、1987年から1992年にアメリカ・カリフォルニア、スウェーデン、オーストラリア、韓国・ソウルの国際交流美術(版画)展に出品している銅版画作家の多賀新(たが・しん)さん。

1964年生まれ、多摩美術大学グラフィックデザイン科を卒業、アートディレクター、グラフィックデザイナーを経て「さぶ」にてゲイマンガ、小説を連載し、1982年に「小説ジュン(June)」にマンガを掲載、1984年から1985年にかけてゲイ雑誌「さぶ」や「アドン」、「薔薇族」にイラストを掲載、1986年に「小説さぶ」で小説デビューし、「さぶ」にマンガも掲載した。

その後「さぶ」を中心に、マンガ、イラスト、小説を発表し、1994年に「バディ」で連載し、「薔薇族」でも連載し、1995年に「ジーメン」の創刊に企画段階から参加、創刊号から62号まで表紙イラスト、連載マンガ、雑文などを発表し、日本の過去のゲイ・エロティック・アートの研究、およびその再評価活動も展開している田亀源五郎(たがめ・げんごろう)さん。

1966年埼玉県生まれ、本郷高校デザイン科を卒業、徳間書店にいた大塚英志(おおつか・えいじ)さんと出会い、「アワ・タイム」(プチ・アップルパイ)でデビューし、藤原カムイ(ふいjわら・かむい)さんらのアシスタントを経て、原作の大塚英志さんと組んで「魍魎戦記マダラ(MADARA)」の作画を担当した、マンガ家、イラストレーターの田島昭宇(たじま・しょうう)さん。

英国ロンドン生まれの画家、イラストレーターで、スキャンダラスな少女画で知られるトレヴァー・ブラウン(Trevor Brown)さん、1965年から「奇たんクラブ」に作品を発表しはじめ、1970年代中頃から1980年代中頃までSM作品を発表しなかったが、1980年代中頃にSM作品を発表しはじめ、2004年から個展を開いている室井亜砂二(むろい・あさじ)さん。

また、幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師、月岡芳年(つきおか・よしとし、1839-1892)の無惨絵コレクションも特別展示する。

ウイキペディアによると、「無惨絵」とは、落合芳幾(おちあい ・よしいく、1833-1904)と「血まみれ芳年」と呼ばれた月岡芳年(つきおか・よしとし、大蘇芳年=たいそ・よしとし、1839-1892)という、浮世絵師の歌川国芳(うたがわ・くによし、1798-1861)の2人の弟子が1866年に版行された「英名二十八衆句」に掲載された血がしたたる凄惨な作品が最初といわれている。

歌川国芳により描かれた芝居小屋の中の血みどろを参考にし、これに触発されて制作された作品だ。全28枚をそれぞれが14枚ずつ担当し、多くの主題を、「東海道四谷怪談」や「夏祭浪花鑑」などの幕末の芝居に取材しているが、月岡芳年は血のりの感じを出すために絵の具にニカワ(獣類の皮、骨、腸などを煮出した液を冷まして固めたもの)を使用した。

このような無惨絵は、閉鎖的で流動しない泰平の世に倦み、理想的な美を追う反面、刺激的な悪や醜を見るといった時代の反映であり、人間の深層心理にも根ざしていると考えられる、としている。月岡芳年の作品群の中でも、無惨絵は芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ、1892-1927)、谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう、1886-1965)、三島由紀夫(みしま・ゆきお、1925-1970)ら近代作家の創作活動に強烈な刺激を与えたといわれている。

三島由紀夫は芳年の無惨絵について「幕末動乱期を生き抜いてきた人間に投影した、苛烈な時代が物語られている。これらには化制度以後の末期歌舞伎劇から、あとあとまでのこった招魂社の見世物にいたる、グロッタの集中的表現があり、おのれの生理と、時代の末梢神経の昂奮との幸福な一致におののく魂が見られる」(「血の晩餐ー大蘇芳年の芸術」)としている。

23日17時30分から太田記念美術館主席学芸員の日野原健司(ひのはら・けんじ)さんと田亀源五郎さんによる無惨絵展特別トークイベント「月岡芳年/バイオレンスとカタルシス」を開き、月岡芳年作品の魅力について語りあう。定員は40人限定で、料金は2000円(ワンドリンク付)。

日野原健司 さんは1974年千葉県生まれ、慶応義塾大学大学院文学研究科前期博士課程を修了、江戸時代から明治時代までの浮世絵の歴史を研究し、妖怪や園芸、旅といったジャンルの研究にも取り組んでいる。

開場時間は12時から19時(土・日曜日、祝日17時)で、入場料は500円。

日比谷「母を亡くした時」安田顕、松下奈緒ら舞台挨拶

【銀座新聞ニュース=2019年2月15日】中堅の映画配給会社のアスミック・エース(港区六本木6-1-24、ラピロス六本木)は2月23日にTOHOシネマズ日比谷(千代田区有楽町1-1-3、東京ミッドタウン日比谷、050-6868-5068)で「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」に出演している安田顕さん、松下奈緒さんらによる舞台あいさつを開く。

2月22日から一般公開される「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」

23日10時の回上映終了後と13時の回上映前に、療護監督の大森立嗣(おおもり・たつし)さんをはじめ、「宮川サトシ」役の安田顕(やすだ・けん)さん、サトシの恋人「真里」役の松下奈緒(まつした・なお)さん、サトシの母「宮川明子」役の倍賞美津子(ばいしょう・みつこ)さんが舞台に登場してあいさつする。

「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」は宮川サトシ(みやがわ・さとし)さんが新潮社のウェブコミック「くらげバンチ」に2013年12月20日から2014年7月11日まで連載された(全16話)自伝的マンガが原作で、2015年に舞台化されている。

宮川サトシさん自身が大学時代に白血病で闘病生活を送っており、その時にたくさん心配をかけ、明るく励ましてくれた母に代わって、こんどは自分が母を救おうと闘病の母に寄り添った2年間を描いた。病気が原因で就職の内定も辞退し、大学卒業後は実家暮らしで学習塾で働きながらマンガ家をめざしていたが、母の死後、背中を押されるように上京し、マンガ家となり、母の亡くなった1年後に記録用に描いていた。

物語は子どもの頃から病気がちだったサトシだが、母のかけてくれたやさしい言葉に救われてきたにもかかわらず、2年前に母ががんの告知を受け、こんどはサトシが母にやさしい言葉をかける番になってしまったという話で、百度参り、修行僧のような滝行、国産野菜のジュース作り、とサトシは恋人の真理に支えられながら、母のためになるならと、どんなことでもやった。

しかし、30代後半になったサトシに母との永遠の別れが訪れる。あれから1年。生きる気力をすっかりなくしていた父と兄もようやく新たな人生へ再スタートをきった頃、サトシのもとに突然、母からのプレゼントが届く。

ウイキペディアによると、大森立嗣さんは1970年東京都生まれ、父親が前衛舞踏家で俳優の麿赤児(まろ・あかじ、1943年生まれ)さんで、弟が俳優の大森南朋(おおもり・なお)さん、駒沢大学文学部社会学科を卒業、在学中から8ミリ映画を制作し、俳優としても活動した。卒業後は、俳優として活動し、その後、荒井晴彦(あらい・はるひこ)さん、阪本順治(さかもと・じゅんじ)さん、井筒和幸(いずつ・かずゆき)さんらの短編映画などさまざまな作品で助監督を務めた。

2001年に自らプロデュースし、出演した「波」で第31回ロッテルダム映画祭最優秀アジア映画賞「ネットパックアワード(NETPAC AWARD)」を受賞、2005年に「ゲルマニウムの夜」で監督としてデビューし、東京国立博物館の敷地内の特設映画館「一角座」にて、約半年に渡って上映し、ロカルノ国際映画祭コンペティション部門に正式出品した。

2010年に監督第2作目「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」が国際映画祭フォーラム部門正式招待作品、第10回東京フィルメックス特別招待作品に出品、2010年度(第51回)日本映画監督協会で新人賞、2013年に秋葉原通り魔事件題材にしたフィクション作品「ぼっちゃん」を監督、同年に「さよなら渓谷」で世界4大映画祭のひとつ、第35回モスクワ国際映画祭のコンペティション部門出品に出品され、審査員特別賞、連続ドラマW(WOWOW)で「かなたの子」が放送された。

2014年に「まほろ駅前狂騒曲」で第14回高雄映画祭でオープニング上映され、2016年に「セトウツミ」を監督、2017年に「光」を映画化し、第12回ローマ国際映画祭のオフィシャル・セレクションで上映され、2018年に「日日是好日」で第43回報知映画賞監督賞を受賞した。

チケットはチケットぴあ(http://w.pia.jp/t/bokuiko-movie/)を通じて先行抽選を受付中で、18日11時締め切り。19日10時から一般発売する。料金は全席指定で一般2000円、大学生・専門学校生1700円、高校生・3歳以上中学生、障がい者1200円、シニア1300円。

東宝1月映画、3%減の4カ月連続、新作1点のみ

【銀座新聞ニュース=2019年2月15日】阪急阪神東宝グループで、国内映画業界首位の東宝(千代田区有楽町1-2-2、03-3591-1221)はこのほど、1月の映画営業部門興行成績(速報ベース)が前年同月比3.0%減の32億4960万円で、4カ月続けて前年同月を下回ったと発表した。

「マスカレード・ホテル」((C)2019 映画「マスカレード・ホテル」製作委員会 (C)東野圭吾/集英社)が1月18日に公開され、2週連続1位と健闘したものの、1月の映画営業部門興行成績が4カ月続けてマイナスとなった。

1月は例年、2月、6月、10月よりも観客動員数が多いものの、12月の最需要期の反動で減少することが多い月で、2014年1月が91億円と大幅に伸びた反動で、2015年1月が56億円、2016年1月が61億円、2017年1月も67億円と横ばい、2018年1月が33億円と半減し、2019年も30億円台とほぼ横ばいだった。

一方、トーホー(TOHO)シネマズ、関西共栄興行、スバル興業という連結3社と東京楽天地、オーエスの持分法適用2社を合わせた5社ベースの東宝グループの映画館(687スクリーン)の1月の入場料収入(売店収入は除く)は同38.2%増の57億6055万円だった。2013年6月発表からトーホーシネマズ直営館の入場料収入と東宝グループの入場人員を公表するのを止めている。

1月の新作は18日に公開された「マスカレード・ホテル」のみだった。

興行通信社の映画興行ランキングによると、1月5日、6日の週は「映画 妖怪ウォッチ フォーエバー・フレンズ」が4週目で9位とトップ10入りは前の週より1点減って1作品だった。

12日、13日の週はトップ10入りが前の週より1点減ってゼロだった。

19日、20日の週は「マスカレード・ホテル」が初週1位とトップ10入りは前の週より1点増えて1作品だった。

26日、27日の週は「マスカレード・ホテル」が2週目も1位とトップ10入りは前の週と同じく1作品だった。

配給作品は「マスカレード・ホテル」、「来る」、「ニセコイ」、「スマホを落としただけなのに」、「映画 妖怪ウォッチ フォーエバー・フレンズ」など6本だった。

オフィスも世間も容量不足が悩みね、教師も(272)

【tamaoのOL独り言=2019年2月14日】最近のトレンド、なのか、わたしの周りだけなのかもしれないけど、いろいろと容量が足りない。

ちょっとひと休み、笑顔に和むね。

ほとんどは仕事のデータなのだけど、物を置くところも足りない。仕事場では書類置き場が足りないの。捨てればいいと言われるけど、だいぶ捨てているんですよ。

確かに過去の書類なんて見たくないかもしれないけど、そういう人に限って、自分が仕事したくない時は、過去の書類見せてって言うのよね。ちゃっちゃっと仕事を進めてくれたら、過去の書類捨てるんですけど。

まぁでも捨てるか。だって、役に立つ書類なんてないもん。経緯って言ったってしょせ、ふーんとなるだけ。ならば残すことに意味はないのよね。切り替えて捨てましょう!紙の書類は。

紙だけじゃなく、データも取っておかなくていいんだって。おー、じゃんじゃん捨てましょう!でもちょっと、待って。日本人は間違っている。世界中で、こんなに整理して系統立てて保存できているのは日本人だけなんだと思う。

難しいけど、それをできるのは日本人しかいない。いろんなことがそうなのに、それを忘れてしまっている。ほかの人ができないから、向こうは低くて壊れやすい土俵を作っているのに、その土俵に上がってどうするのだ。

携帯持ってないからって、持たせてどうする。仲間はずれにしてどうする。しょせんは小さい世界の中の出来事なのに、気づかないでどうするのだ。まぁ、それも現時点での話で、将来はわからないけどね。

この間の休みの時に、お受験のテレビ番組を見た。結果はともかく、そもそも、試験の当日まで試験会場までついて行ったら、集中できないことぐらい親も塾の先生もわからないか?

また受かったところで、クラスメートからどういうお付き合いを求められるのかわかってるのかな?それこそ多感な時期の子ども達ですよ。先生もマニュアル世代なんだろうなと思ってしまう。親からの虐待を分からず、分かっていても防げない先生ばっかりなのに。

でもそんな先生だけじゃないって、思いたいよね。厳しくも優しい先生が残っていますように。話がそれちゃいましたけど。過去のそんな生徒たちのこと、きっと書類で残っているはずよ。えっと、そこも容量オーバーなんて・・・。ないよね(敬称略、中堅企業に勤めるOLのタマオさんが日常の生活について思っていることを不定期に書きます。注書きは著者と関係ありません)。

永谷商事が神田紅佳と神田明神、湯島天神巡り

【銀座新聞ニュース=2019年2月14日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸上野広小路亭」(台東区上野1-20-10、上野永谷ビル、03-3833-1789)は2月20日に神田紅佳さんによる「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

2月20日に開かれる「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「神田明神と湯島天神梅祭り」を案内する神田紅佳さん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開いている「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画だ。

今回は「神田明神と湯島天神梅祭り」と題して二つ目の神田紅佳(かんだ・べにか)さんと一緒に「大久保彦左衛門屋敷跡」(千代田区神田駿河台1-8)から「ニコライ堂(正式名称は「東京復活大聖堂」)」(千代田区神田駿河台4-1)、「太田姫稲荷神社」(千代田区神田駿河台1-2)、「神田明神」(千代田区外神田2-16-2)、「学問の神様」といわれる「湯島天満宮(湯島天神)」(文京区湯島3-30-1)と歩いて、その後、「お江戸上野広小路亭」でしのばず寄席を鑑賞する。

「大久保彦左衛門屋敷跡」は杏雲堂病院(千代田区神田駿河台1-8)の中に大久保彦左衛門忠教(おおくぼ・ひこざえもんただたか、1560-1639)の江戸屋敷があったため、今は植え込みのなかに屋敷跡の史跡が建っている。

大久保彦左衛門忠教は「一心太助」の物語や「三河物語」で知られている。1590年に小田原征伐の後、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)が江戸に移封されると、兄の忠世(ただよ、1632-1594)が小田原城主に任じられ、1600年の関ヶ原の戦いでは、家康本陣で槍奉行を務めたが、大久保長安事件により改易された。

その後、駿府に召し出され、徳川家康直臣の旗本として復帰し、2代目将軍徳川秀忠(とくがわ・ひでただ、1579-1632)、3代目将軍徳川家光(とくがわ・いえみつ、1604-1651)に仕えた。

大久保彦左衛門と一心太助の物語は鶴屋南北(つるや・なんぼく、?-1736)の弟子、河竹黙阿弥(かわたけ・もくあみ、1816-1893)が歌舞伎芝居向けに書き、脚色されたといわれ、一心太助は実在してない人物といわれている。

「ニコライ堂」はロシア人修道司祭の聖ニコライ・カサートキン(Nikolai D・Kasatkin、1836-1912)の依頼により、ロシアの建築家でロシア工科大学教授だったミハイル・シチュールポフ(Michael A.Shchurupov)が基本設計、イギリスの建築家、ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852-1920)が設計の一部を修正し、監督にあたり、1891年3月8日に竣工した。

1923年の関東大震災で上部のドームと鐘楼が倒壊し、1929年に復興され、1962年に国の重要文化財に指定され、1992年から9年の歳月をかけて修復が行なわれた。

「太田姫稲荷神社」は太田道潅(おおた・どうかん、1432-1486)ゆかりの古社で、元々は839年に小野皇(おのの・たかむら、802-853)が山城国の南にある一口(いもあらい)の里に神社をつくったとされたのが起源だ。1457年に江戸の開祖、太田道潅が娘の姫君が病にかかったのを一口稲荷神社の故事を聞き、祈願すると、病が回復し、江戸城内の本丸に建立し、さらに、鬼門に移し、現在の名称にした。

1606年に徳川家康が江戸城の大改築を行い、城内にあったこの社を西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側に移した。1866年に大火で神体を除き神殿、末社、宝物などが全焼し、1928年に本社殿、神楽殿、御水舎、神輿庫、社務所、鳥居などが新築された。1931年に総武線建設のため社地の大半を収容され、鉄道省から現在地を交換地とされ、移った。

「神田明神」は730年に武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、「大己貴命(おほなむち、大国主=おおくにぬし=の若いころの名前)」を祖神としてまつったのがはじまりで、935年に敗死した平将門(たいらのまさかど、?-940)の首が近くに葬られ、嘉元年間(1303年から1306年)に疫病が流行し、これが平将門のたたりとされて供養が行われ、1309年に神田明神の相殿神とされた。

江戸時代に江戸城増築に伴い、現在地に遷座(せんざ)した。江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として尊崇され、神田祭の山車(だし)は将軍上覧のために、江戸城中にまで入ったので、別名「天下祭」ともいわれ、江戸3大祭りのひとつとされてきた。

江戸初期に豪華な桃山風社殿が、1782年には権現造の社殿が造営されたが、1923年の関東大震災で焼失した。明治時代にはいると、准勅祭社に指定されたものの、明治天皇(めいじてんのう、1852-1912)が行幸する際に、神社に逆臣である平将門がまつられていることが問題視され、平将門が祭神から外された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、1984年になって本社祭神に復帰した。

神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけないといわれている。当時の朝廷から見て東国(関東)において反乱を起した平将門を討伐するため、成田山新勝寺で平将門の乱鎮圧のため動護摩の儀式を行わせ、成田山新勝寺を参拝することは平将門を苦しめることとなり、神田明神崇敬者は成田山の参詣をしてはならないとされている。

「湯島天神」は458年に雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、418-479)の勅命により、天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)をまつる神社として創建され、 1355年に菅原道真(すがわらのみちざね、845-903)をまつり、江戸時代には徳川家が重視された。社殿は1995年に再建され、2000年に「湯島神社」から「湯島天満宮」に改称した。

また、湯島天神は江戸時代より約250本の白梅の樹木など「梅の名所」として知られ、1958年から「梅まつり」が開催され、2月8日から3月8日まで開かれている。

神田紅佳さんは2013年5月に神田紅(かんだ・くれない)さんに入門、2017年10月に二ッ目に昇進している。

時間は10時から16時で、10時にJR中央線御茶ノ水駅に集合し、昼までにお江戸上野広小路亭に戻り、13時30分からお江戸上野広小路亭で神田紅佳さんも出演するしのばず寄席を鑑賞する。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3500円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。