【銀座新聞ニュース=2012年3月21日】日本橋三越(中央区日本橋室町1-4-1、03-3241-3311)は3月21日から3月27日まで新館7階ギャラリーで「御所のお庭」写真展を開催している。
2010年12月23日に天皇陛下が喜寿(77歳)を迎えたのを記念して、宮内庁が2010年12月に「御所のお庭」(扶桑社、2400円)を刊行している。この写真集は従来の一般公開されている東御苑の自然を扱ったものとは異なり、天皇陛下(てんのうへいか)と美智子皇后(みちここうごう)が毎朝、散歩される小道に咲く野花や、天皇陛下が大切にされている野菊などの植物が掲載されている。
この「御所のお庭」に掲載されている草花や木の実は250種類近くに上り、そのすべてに宮内庁庭園課監修の植物データがついている。
また、1959年4月10日に結婚して以来、50年目の記念の日に天皇陛下が撮影された美智子皇后の写真をはじめ、両陛下の写真、応接間から見た庭の写真、両陛下と草花にまつわるエピソード、草花をテーマに両陛下が詠まれた和歌などが侍従の解説つきで掲載されている。
今回は、美智子皇后が2011年10月20日に喜寿を迎えられたのを記念して、「御所のお庭」に掲載されている両陛下の写真、季節ごとの庭の写真や植物約250種の中から選んだ約130点を展示する。
皇居で春になると咲く「プリンセス・ミチコ」は1967年にイギリスの王女から当時、皇太子妃だった美智子皇后に贈られた。夏のヒツジグサは美智子皇后が那須御用邸を散策された際に、昭和天皇から名前を教わられた花という。
秋のハマギクは1997年に岩手県大槌町を訪問された際に、宿泊された所に飾られていたもので、その後、種子を取り寄せ、育てられた。冬のコブシは美智子皇后が天皇陛下のやさしさを御歌に詠まれた思い出の花のひとつで、御所の北庭に植えられている。軽井沢ゆかりのアサマキスゲは両陛下の出会いの地、軽井沢ゆかりの花という。
ウイキペディアなどによると、「皇居」は旧江戸城で、太田道灌(おおた・どうかん、1432-1486)が1457年に築き、太田道灌が上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1446-1494)に殺害されると、江戸城が上杉氏の所有するところとなり、上杉朝良(うえすぎ・ともよし、1473?-1518)が隠居城として用い、1524年に扇谷上杉氏(おうぎがやつ・うえすぎし)を破った後、北条氏の北条氏綱(ほうじょう・うじつな、1487-1541)の支配下に入った。
1590年に豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし、1537-1598)の小田原攻めの際に開城し、後北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府(静岡)から転居した権大納言である徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)が同年8月1日に公式に入城し、居城とした。
徳川家康が城した後は、江戸城は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となった。1657年の「明暦の大火」により天守を含めた城構の多くが焼失され、町の復興を優先し、経済的な理由もあって天守は再建されなかった。明治維新後の東京遷都により宮城(きゅうじょう)・皇居とされた。
以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となり、その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放され、南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。国の特別史跡に指定されている。
ウイキペディアなどによると、今上天皇(きんじょうてんのう)は1933年12月23日生まれ、第124代天皇の昭和天皇(しょうわてんのう、1901-1989)の第1皇子で、1946年10月から1950年12月までアメリカの著名な児童文学者、クエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(Elizabeth Janet Gray Vining、1902-1999)が家庭教師として就き、1952年に18歳で成年して皇太子となり、1953年3月30日から10月12日まで外遊、ヨーロッパ12か国およびアメリカ・カナダを歴訪し、この間、イギリス・エリザベス2世(Elizabeth 2)の戴冠式(たいかんしき)へ昭和天皇の名代として参列した。
外遊からの帰国直後の12月に結核と診断された(1957年までに治癒)。この外遊により、学習院大学の単位が不足し進級できず、長年の学友と学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学問を続けた。1957年8月19日に軽井沢のテニストーナメントで正田美智子(しょうだ・みちこ)さんと出会うが、皇族・華族出身ではないため、お妃候補となると皇室内外から猛反対を受け、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政(いりえ・すけまさ、1905-1985)の著作「入江相政日記」には、香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903-2000)が秩父宮妃勢津子(ちちぶのみやひ・せつこ、1909-1995)、高松宮妃喜久子(たかまつのみやひ・きくこ、1911-2004)の両親王妃とともに昭和天皇に反対したと記述されている。
「常磐会」(学習院女子部の同窓会)会長松平信子(まつだいら・のぶこ、1886-1969)ら旧華族の女性も反発し、昭和天皇自ら松平信子に了承を求めて決着したともいわれ、1958年11月27日に結婚が皇室会議において満場一致で可決され、1959年4月10日に結婚の儀が執り行われた。1975年に沖縄国際海洋博覧会に際し、立太子後初めて沖縄を訪問した。
1989年に昭和天皇の崩御を受け、皇位を継承した。1999年に即位10周年を迎え、宮内庁が即位10年記録集「道」を刊行し、2003年までに47都道府県のすべてを訪問している。2011年3月16日に東日本大震災の発生により、国民および被災者に対しビデオメッセージを放送した。天皇が国民に対して直接放送を行うのは、昭和天皇による1945年の玉音放送以来とされている。現在も年間約1000件の書類に目を通して署名・押印し、約200回の各種行事に出席し(2007年度)、20件近くの祭儀を執り行っている。
美智子皇后は1934年東京都文京区生まれ、父親が日清製粉グループ本社の創業者の正田貞一郎(しょうだ・ていいちろう、1870-1961)の3男、正田英三郎(しょうだ・ひでさぶろう、1903-1999)の長女、1957年に聖心女子大学文学部外国語外国文学科(英文学)を首席で卒業、卒業式で総代として答辞を読んだ。
同年8月に軽井沢会テニスコートのテニストーナメント大会で皇太子の明仁親王(あきひとしんのう)と出会い、1958年にベルギーの「聖心世界同窓会」第1回世界会議に日本代表として出席、欧米各国を訪問し、11月27日に皇室会議にて満場一致で明仁親王との結婚が可決した。1959年に結婚し、明治以降初めての民間出身の皇太子妃となった。1960年2月23日に第1男子、浩宮徳仁親王(ひろのみやなるひとしんのう)が誕生し、9月22日から10月7日まで「日米修好100周年」を記念し、アメリカを訪れた。
1965年11月30日に第2男子礼宮文仁親王(あやのみやふみひとしんのう)、1969年4月18日に第1女子紀宮清子内親王(のりのみやさやこないしんのう)が誕生し、1989年1月7日に明仁親王の即位に伴い皇后になる。1995年1月31日に天皇とともに阪神・淡路大震災後の神戸を見舞い、神戸市長田区の菅原市場に皇居から自ら切って持参した黄色と白の水仙を供え、この水仙が永久保存された。2002年にスイスで開催された「国際児童図書評議会 (IBBY)50周年記念大会」にIBBY名誉総裁として出席し、これが唯一の単独での海外公務となっている。
2007年8月8日に須崎御用邸での静養を中止し、天皇とともに新潟県中越沖地震の被災地を訪問した。2011年3月30日に天皇とともに東日本大震災の被災者約290人が避難している東京武道館を訪問し、膝をつきながら、ひとりひとりを激励した。
開場時間は10時から19時。入場は無料。