日露戦争の戦時動員など時代に翻弄された人々も描いた「二百三高地」(296)

【ケイシーの映画冗報=2020年8月20日】昭和のころ、夏の映画興行に「東宝8.15シリーズ」という東宝の戦争映画がありました。怪獣映画で特撮技術を確立した東宝が、特撮の見せ場に「歴史を知る視点」を加えたシリーズでした。明確なピリオドはありませんが、30年以上、作品は途絶えています。

8月27日まで丸の内TOEIで、デジタルでリバイバル上映中の「二百三高地」((C)東映)。1904年から1905年のの日露戦争の中でも、ロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る激戦地のひとつとなった戦いを描いている。

映画にかぎらず、エンターテイメントでは、ひとつのヒット作によって、類似の作品が生まれいずることがまま、あります。たしかに“柳の下の……”の事例もありますが、“前例が生まれたので、実現にこぎつけた”という作品もあるので、やはり“作品の中身”で評価するのが適切ではないでしょうか。

1904年、中国大陸と朝鮮半島の権益をめぐり、南下政策を続けるロシアと日本が戦端を開くことになりました。国力で日本の10倍というロシアとの戦いは、本土が近く、近代的な軍事組織をもっていた日本が有利に進めましたが、ロシアの艦隊基地である旅順港と、そこを守る旅順要塞の存在が大きな問題となっていました。

旅順にロシア艦隊があるかぎり、海上補給が危険ということで、日本軍は旅順を攻めることを決断し、指揮官に乃木希典(のぎ・まれすけ、1849-1912。演じるのは仲代達矢=なかだい・たつや)を任命します。

乃木は10年前の日清戦争(1894年から1895年)でおなじ旅順を攻略(このときは清国軍)したのですが、今度の対戦相手であるロシア軍は、あらゆる面で強大な敵でした。

十分な準備のないまま敢行した総攻撃で、1万5000人以上の戦死傷者という大きな損害を出した乃木は、無理攻めをせず、準備期間をおいての再攻撃を考えますが、さまざまな要素をふくんだ戦争の現状がそれを許すことはなく、一つの要塞が戦争全体にまで影響を与え、日本の存亡のかかった戦場となっていくのでした。

今夏、リバイバル公開された本作「二百三高地」が劇場公開されたのは1980年。日露戦争の終結から75年というタイミングで、この年の邦画では第3位の配給収入記録というヒットとなりました。

まだ“日露の戦場を知る”人物がギリギリ、ご存命だったころです。また、日露戦争が一応は日本の勝利に終わっていたことも大きかったでしょうし、40年後の大東亜戦争の帰趨よりも“前向き”なストーリーとなることもプラスだったのかもしれません。

こうした「戦争映画」が邦画として制作されると、自国の戦争ということもあってか、“戦争翼賛”や“軍国思想”といった論調が生まれてきます。

少なくとも、個人的には本作においては、その評価は適当ではないと考えます。かたくなにロシアとの戦いを避けようとする政府の重鎮であった伊藤博文(いとう・ひろぶみ、1841-1909。演じるのは森繁久彌=もりしげ・ひさや)が、陸軍随一の天才といわれた児玉源太郎(こだま・げんたろう、1852-1906。演じるのは丹波哲郎=たんば・てつろう)の正確な情勢判断から、「戦争やむなし」という判断に傾くところは、国際社会の「理想と現実」を訴えていると思いますし、日露の開戦からはじまった戦時動員により、一般市民が続々と軍に招集される状況など、大きな時代の流れに翻弄される市井の人々も描かれています。

そして、もうひとつ。この作品が現在を描いたものではなく、20世紀初頭の情勢下にある日本が舞台であることも、忘れてはならないでしょう。アジアやアフリカのほとんどは欧米列強の植民地や属領であった時代です。

人種差別や民族差別も公然とおこなわれていました。本作で伊藤博文を演じた森繁久弥の舞台での代表作「屋根の上のヴァイオリン弾き」も19世紀末、ロシア領を追われるユダヤ人一家を描いた作品です。

歴史に詳しい友人によると、日露戦争あたりまでの対外戦争は、世界景気に好影響を与えたそうです。日本は旅順で使う砲弾を、大量にイギリスやドイツから買いましたし、ロシアも良質な軍艦用の石炭を、日本の同盟国であるイギリスからの密輸で調達していました。交戦国への投資によって利益を確保するといった「経済活動」の一面もあったのだそうです。

「難攻不落と称せられた旅順の陥落は(中略)外債募集にも好影響を与えた」(「日本の戦争 図解とデータ」)

このように、「勝ち馬に乗る」ことを意図して国際資本が動いたのだそうで、ロシアも日本も、海外に戦費を求めていたのでした。

「この戦勝で日本の国際的地位も上り、虐げられた有色人種を鼓舞したが、慢心も生じた」(前掲書)

このことも忘れてはいけないと強く感じます。本年は大東亜戦争の終戦からちょうど75年でもあります。次回は「狂(くるい)武蔵」を予定しています(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:ウイキペディアによると、「日露戦争」は1904(明治37)年2月8日から1905(明治38)年9月5日にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争で、朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされた。

満州南部と遼東半島がおもな戦場となり、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられ、最終的に両国はアメリカの仲介の下で調印されたポーツマス条約(1905年8月10日から9月5日まで交渉)により講和した。

講和条約により、日本は朝鮮半島における権益を認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を割譲させ、ロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を獲得し、東清鉄道の旅順-長春間支線の租借権も得た。しかし、賠償金を得られず、戦後外務省に対する不満が軍民などから高まった。

「二百三高地」をめぐる戦いは日本の第3軍(満州軍)が1904年11月28日に攻撃を開始し、12月5日に陥落させた。しかし、「結果的に二百三高地の占領は戦略的にも戦術的にも日本側に寄与しなかった」と結論づけている。

ロシア側の旅順艦隊は黄海海戦と、大弧山や海鼠山からの観測射撃で大損害を被っていたが、これを修理する設備は旅順港にはなく、旅順艦隊は黄海海戦後は乗員や火砲を陸揚げして防衛戦に投入させており、実質消滅していたためだ。

こうしたことから、二百三高地に主攻撃を替えずとも、このまま東北方面への攻撃を継続することでもロシア側の予備兵力を消耗させることはできており、逆に主攻撃を替えたことで寄り道をしたことになり、「仮に二百三高地への攻撃に変更しなかったら、史実よりも早くロシア軍は降伏していた可能性もあった」と厳しく指摘している。

「土間土間」でタイ料理割引フェア、最大で半額も、ビールも

【銀座新聞ニュース=2020年8月19日】国内第4位の外食グループ、コロワイド(神奈川県横浜市西区みなとみらい2-2-1、ランドマークタワー)傘下で、焼肉レストランの「牛角」などを運営するレインズインターナショナル(神奈川県横浜市西区みなとみらい2-2-1、ランドマークタワー、0120-142-029)は8月26日まで「土間土間銀座1丁目店」(中央区銀座1-5-10、ギンザファーストファイブビル、03-5524-3550)をはじめとする全国の「土間土間」108店で「土間土間風『タイ料理フェア』」を開いている。

8月26日まで「土間土間銀座1丁目店」など「土間土間」店で提供中している「土間土間風『タイ料理フェア』」のフライヤー。

「土間土間店」は2019年から一部の店で提供していたタイ料理を、7月6日からタイ国政府観光庁東京事務所(千代田区有楽町1-7-1、有楽町電気ビル南館、03-3218-0355)の協力を得て、「土間土間風」の「タイ料理」を9月6日まで提供している。

今回はさらに8月26日までの期間限定で、タイ料理が最大半額から20%引きで食べられる「タイ料理フェア」を開いている。

今回は料理が9品、飲み物も4品、割安にしている。「ガパオピザ」(税抜490円)が245円、「蒸し鶏と海老の生春巻き」(490円)も245円、「パッタイ」(590円)が472円、「冷やしガパオうどん」(590円)が472円、「グリーンカレー」(590円)が472円、「カオマンガイ」(590円)が472円。

「えびパン」(490円)が392円、「カニチリ スパイシーパウダー」(390円)が312円、「カニチリ マンゴーチリソース」(390円)が312円。

飲み物は「ビール中ジョッキ」(アサヒスーパードライ、390円)が150円、「レモンサワー」(390円)が99円、「トロピカルカクテル」(490円)が392円で提供している。

銀座の周辺では「土間土間銀座1丁目店」のほかに、「八重洲店」(中央区日本橋2-3-18、江間忠さくらビル、03-3516-6003)、「新橋西口通り店」(港区新橋3-23-1、Box’R ShinBashiビル、03-5401-3625)、「新橋SL広場店」(港区新橋2-15-7、S-PLAZA弥生、03-3595-4334)などがある。

営業時間は17時からで、閉店時間は各店に確認を。公式HPなどのフェア特設ページかチラシを提示し、飲食代金が2000円(税引)以上になると利用できる。

丸善日本橋で砥部焼展、梅山窯や貞山窯、雲石窯、東吉窯等9窯

【銀座新聞ニュース=2020年8月19日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は8月19日から9月1日まで3階ギャラリー特設会場などで「第4回砥部焼展-暮らしを彩る『用と美』の器」を開く。

丸善・日本橋店で9月1日まで開かれる「第4回砥部焼展-暮らしを彩る『用と美』の器」のフライヤー。

愛媛県伊予郡砥部町を中心に作られる陶磁器「砥部焼(とべやき)」で焼かれた品々は国の伝統工芸品に指定されており、2020年でおよそ240年の歴史を迎える砥部焼の里には、現在も100ほどの窯元が存在する。今回は梅山窯をはじめ、9の窯元の定番から新作まで約1000点を取り揃え展示販売する。

「梅野精陶所」の「梅山窯(ばいざんがま)」(愛媛県伊予郡砥部町大南1441、089-962-2311)は梅野政五郎(うめの・まさごろう、生没年不詳)が1882年に開窯し、今も地元では最大規模の窯元で、現在は岩橋和子(いわはし・かずこ)さんが代表を務め、約50人が制作などをしている。

「岩田製陶所(貞山窯=ていざんがま)」の岩田健二(いわた・けんじ、1969年生まれ)さん、「雲石窯(うんせきがま)」の山田雅之(やまだ・まさゆき、1964年生まれ)さん、梅野精陶所で修業した「岡田陶房」の岡田威(おかだ・たけし、1962年生まれ)さん、梅野精陶所で修業した「工房芥川」の芥川正明(あくたがわ・まさあき、1950年生まれ)さん。

「勝部製陶所(東吉窯=とうきちがま)」の勝部東一(かつべ・とういち、1942年生まれ)さん、梅野精陶所で修業した「中田窯」の中田正隆(なかた・まさたか、1946年生まれ)さん、2017年に独立した「イロリ工房」の崎村彩香(さきむら・あやか)さん、「スタジオエッコ(STUDIO ECCO)」の中村智子(なかむら・ともこ)さんが出品する。

ウイキペディアや砥部町観光協会、砥部焼協同組合によると、「砥部焼」は大洲藩(おおずはん)9代藩主の加藤泰候(かとう・やすとき、1760-1787)の時代に、藩の財政を立て直すため、砥石くずを使った磁器づくりを命じたことが起源とされている。

奈良・平安時代から、砥部・外山の砥石山から切り出される砥石は「伊予砥(いよと)」と呼ばれ、東大寺の「正倉院文書」には「観世菩薩像造立」の材料に、「伊予の砥」を用いたことが記されている。また、平安時代編さんの「延嘉式」にも伊予国産物として「外山産砥石」を随用すると記録されている。

しかし、伊予砥の生産の際に、砥石の切出しのときに出る砥石屑の処理が重労働で、その作業に御替地(伊予市)の村人が動員されていたが、負担が大きすぎて、村人は動員の免除を大洲藩に願い出るまでになった。

その頃、伊予砥の販売を一手に引き受けていた大阪の砥石問屋、和泉屋治兵衛(いずみや・じへえ、生没年不詳)が天草の砥石が磁器の原料となることを知り、大洲藩に伊予砥の屑石を使って磁器を生産することを進言した。和泉屋からの進言を受け入れ、加藤泰候は1775(安永4)年に家臣の加藤三郎兵衛(かとう・さぶろうべえ、生没年不詳)に「磁器」の生産を命じた。

加藤三郎兵衛は麻生村(現砥部町)の豪農、門田金治(かどた・きんじ、生没年不詳)に資金を出させ、現場の監督者に組頭の杉野丈助(すぎの・じょうすけ、生没年不詳)を選び、肥前の長与窯から5人の陶工を招き、五本松の上原に登り窯を築き、何回か試焼を行い、本焼も行ったが、地肌に大きなひびが入るなど、失敗の連続で、肥前の陶工は帰郷し、残された杉野丈助は本焼を続けた。最後には、赤松の薪もなくなり、家の柱や畳まで窯にくべたといわれている。

その様子を見ていた筑前の陶工、信吉(しんきち、生没年不詳)が釉薬原料の不良にあることを教え、杉野丈助は筑前に出かけ、新しい釉薬を探し、1776(安永6)年に白地に藍色の焼き物作りに成功した。これ以降、焼き物に必要な薪も近くの山々で豊富に採れたうえ、傾斜地に流れる渓流や小川は水車を据えるのに適しており、原料の砥石を砕き陶土にするのに盛んに用いられた。

やや厚手の白磁に、呉須(ごす)と呼ばれる薄い藍色の手書きの図案が特徴で、一般に食器、花器などに使われ、別名「喧嘩器」とも呼ばれている。

明治以降、砥部焼は中国などの外国に「伊予ボール」の名で輸出され、向井和平(むかい・わへい、1842-1904)が制作した「淡黄磁」が、1893(明治26)年にシカゴ世界博覧会で1等賞を受賞し、砥部焼の名は世界に知られるようになり、大正期に入ると、砥部焼は輸出が7割を超えるまでになった。

しかし、大正末期から昭和初めの不況などにより、砥部焼の生産や販売は落ち込み、一方で、瀬戸や美濃などの陶器は、石炭を使った倒焔式の窯や機械ロクロや石膏型、絵付けでの毛筆から銅板印刷へと新しい技術が導入され、砥部は近代化の波から取り残された。戦後になり、1953年に民芸運動の推進者である柳宗悦(やなぎ・むねよし、そうえつ、1889-1961)らが砥部を訪れ、手仕事の技術が残っていることを高く評価した。

1956年に陶芸家の富本憲吉(とみもと・けんきち、1886-1963)も訪れ、砥部焼の近代的デザインを後押しし、それに刺激を受けた若手陶工を中心に手作りのよさを生かして、ロクロや絵付けなどの技法向上に取り組み、1976年に砥部焼が国の伝統的工芸品に指定され、1995年に砥部焼の地球儀が国連ヨーロッパ本部に設置され、2005年に砥部焼が愛媛県の無形文化財に指定されている。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。税込で1万円以上購入すると、送料無料で配達してくれる。8月26日から商品を追加、拡大する。

丸善丸の内で日ウクライナ等が動物や郷土の人形展、青の羊、Z・ユリアら

【銀座新聞ニュース=2020年8月18日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ、03-5288-8881)は8月19日から9月1日まで4階ギャラリーで「FANTANIMA!」と「MISOROGI」のクロスオーバー展 「Fanみそ!」を開く。

丸善・丸の内本店で8月19日から9月1日まで開かれる「ファンタニマ(FANTANIMA)」と「みそろぎ(MISOROGI)」のクロスオーバー展 「ファン(Fan)みそ!」のフライヤー。

2020年に8回目を迎える、「羽関オフィス」(東村山市久米川町3-27-57、042-395-7547)が主催、企画する、国内外の作家による創作動物人形のイベントが「ファンタニマ(FANTANIMA)」で、同じく2020年に6回目を迎える、「羽関オフィス」が主催、企画する民族と創作の遭遇をテーマに独特の世界観を織りな郷土人形から現代創作までの人形展が「みそろぎ(MISOROGI)」で、今回は特別合同企画展で新作を交えて展示販売する。

「ファンタニマ」はファンタジー(幻想)の「FANT」と、生命を意味する「アニマ」を合わせた造語で、「みそろぎ(MISOROGI)」は「ミソロジー(Mythology、神話)」の当て字としている。

今回、出品するのは郷土人形系では、東京都の古型今戸人形(こけい・いまとにんぎょう)の吉田義和(よしだ・よしかず)さん、香川県の高松宮内張子(たかまつ・みやうち・はりこ)の太田幹子(おおた・みきこ)さん。

テディ・ベアが「ケーズ・ベア・バイ・ケイコ(K’s BEAR by.keiko)」の小野恵子(おの・けいこ)さん、タクト(Takuto)すがわらさん、べあれねっと(Bar Reinett)の真田玲子(さなだ・れいこ)さん。

玩具系が人形作家の平井英一(ひらい・えいいち)さんと、ペイント・衣裳担当の林奈緒美(はやし・なおみ)さんのユニット「セルロイド・ドール(せるろいど・どーる)」、グラスアイが森脇由美子(もりわき・ゆみこ)さん、パペットが劇団「かわせみ座」の代表の山本由也(やまもと・よしや)さん。

創作人形が青の羊(あおのひつじ)さん、亞鳥舎(あとりしゃ)さん、アンダー・ザ・ファーン(under the fern)の羊歯葉子(しだ・ようこ)さん、飯野モモコ(いいの・ももこ)さん、キミコゴンゴン(Kimikogongon)さん、クサボン(くさぼん)さん。

くるはらきみさん、はつじとしゆきさんを代表とする人形制作集団「月光社(げっこうしゃ)」、小林久仁子(こばやし・くにこ)さん、コリスミカ(こりす・みか)さん、柴崎弘子(しばさき・ひろこ)さん、シロ(shiro)さん。

新家智子(しんけ・さとこ)さん、「スタジオ・ヨヨ(studio yoyo)」のスズキ・ヨウコ(Suzuki Yoko)さん、杉田明十志(すぎた・めいじゅうし)さん、高野香織(たかの・かおり)さん、高橋操(たかはし・みさお)さん、所由紀子(ところ・ゆきこ)さん。

中沢忠幸(なかざわ・ただゆき)さん、西村フェリツ(にしむら・ふぇりつ、FELIZ)さん、ノエ(Noe、高橋野枝=たかはし・のえ=)さん、原田万紀(はらだ・まき)さん、風らい坊(ふうらいぼう)さん、「不思議屋(ふしぎや)」のコジマ・チエ(Kojima Chie)さん。

細貝(ほそがい)まいさん、マツモトヒラコ(まつもと・ひらこ)さん、ままごと森(もり)さん、マル(maru)さん、水澄美恵子(みなずみ・みえこ)さん、ミヤタケイコ(みやた・けいこ)さん。

山吉由利子(やまよし・ゆりこ)さん、ゆうさくでげすさん、ゆきちさん、吉村眸(よしむら・ひとみ)さん、よねやまりゅうさん。

海外からはロシアからロマノヴァ・エカチェリーナ(Romanova Ekaterina)さん、ウクライナからズュビャイロヴァ・ユリア(Zyubyairova Julia)さん、「スリズ・スタジオ・ペレスタジオ(Suliz Studio Perestudio)」ブランドのスリズ・タチアナ(Suliz Tatiana)さん、「サミレ(Sa-Mile)」ブランドのミレツカヤ・サシャ(Miletskaya Sasha)さん、レマンス・タイス(Remains Tais)さんで、このうち、スリズ・タチアナさん、ミレツカヤ・サシャさん、レマンス・タイスさんは新作を特別出品する。

羽関オフィスは千葉県船橋市生まれ、学習院大学文学部哲学科を卒業した羽関千恵子(はぜき・ちえこ)さんが1993年に創作人形を扱う「ユーラシア・ドールズ」を設立し、1994年に創作人形情報専門誌「ドール・フォーラム・ジャパン」を季刊で創刊し(2007年に休刊)、現在、羽関オフィスとチーム・コヤーラ事務局の仕事場をギャラリーに改装し、2019年9月から「ノンクプラッツ」として再スタートしている。

開場時間は9時から21時(最終日16時)まで。入場は無料。19日8時45分から丸善・丸の内本店1階正面入口前で購入整理券の抽選を行う。

注:「柴崎弘子」の「崎」は正しくは「大」が「立」です。

注:「高橋操」の「高」と「中沢忠幸」の「沢」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。

インド、内相が陽性で首相も感染?、ボリウッドの帝王も(32)

【モハンティ三智江のインド発コロナ観戦記=2020年8月18日】8月3日5時、予定通りわが居住エリア(オディシャ州プリー=Odisha・Puri=CTロード)周辺のロックダウン(都市封鎖)が解除された。休業中の当ホテルに仮住まいしていた、甥ファミリーも、グランドバザール(Grand Bazaar)のジャガンナート寺院(Jagannath Mandir)の裏手にある彼らの居住エリアに戻った。

1970年代、ヒンディー映画界・ボリウッドで、一世を風靡したスーパースター、アミタブ・バッチャン(通称Big B)も、コロナに感染した。個人資産4億ドル(約400億円)と言われるムンバイの豪邸は封じ込めゾーンに。同業の子息、嫁、孫娘まで感染した。

すでに、このエリアの封鎖は解除されていたのだが、避難所のわがホテル周辺が密閉されたため、帰れずとどまる羽目を余儀なくされたのだ。まずは誰一人として感染することなく、無事住み慣れた我が家に戻れてほっとした。

メインロードのバイクや車の往来も増えたが、現実には州のロックダウンは依然続行中なので、コロナ前のような混雑振りからはほど遠い。

東インドに感染拡大していることはすでにお伝えしたとおりで、5日現在、アンドラプラデシュ州(Andhra Pradesh、17万6000人)が首都デリー(Delhi、13万9000人、4位のカルナータカ州=Karnataka=14万6000人に次ぐ5位)を追い越し、タミルナドゥ州(Tamil Nadu、26万8000人)に次いで、3位に踊り出た。ワーストは変わらず、マハラシュトラ州(Maharashtra、45万8000人)である。

次は、ビハール(Bihar、感染者6万2031人中死者349人)、オディシャ(感染者3万9018人中死者225人、プリー地方の実質陽性者は334人)とも言われているし、9月末に当州の感染者数は6万人を越す予想が出ている。

今現在、当州の実質陽性者数は、デリーの1万4000人とほとんど変わらない。デリーは、公表データだけ見ると、回復者数が高くて(12万5000人)、その意味でもそろそろ頭打ちで、今後は都市部から地方の蔓延が懸念される。

さて、日本でも報道されたと思うが、全土の感染者数が200万人近い勢いで拡大する中(191万人中回復者数128万人、死者数3万9795人)、アミット・シャー(Amit Anilchandra Shah、1964年生まれ)内相の陽性が発覚、モディ(Narendra Damodardas Modi、1950年生まれ)首相とは、首相がグジャラート州(Gujarat)首相だった時代からの緊密な関係で、濃厚接触者としての二次感染が懸念されている。イギリス、ブラジルに次ぐ国のトップ感染もありうる事態になったわけで、メディアがこぞってトップで取り上げた。

第2次モディ内閣の内務大臣を務めるアミット・シャー。インド人民党(BJP)の前総裁で、最高戦略責任者として、総選挙で党を圧倒的勝利に導いた。首相のなくてはならぬ右腕、陽性発覚による感染対策本部長の欠員は痛い。

個人的には、首相はヨガ信奉者で毎日実践しているし、感染に強い免疫力ができているはずなので、大丈夫と想像するが、こればかりはなんともいえない。しかし、感染対策の指揮を取っていた側近、なくてはならぬ右腕の陽性発覚は、寝耳に水のことで、さすがの鉄腕首相もぎくりとしたことだろう。

ヒンディ映画界・ボリウッド(Bollywood)の帝王、ベテランスーパースターのアミタブ・バッチャン(Amitabh Bachchan、1942年生まれ)も感染して、いまだに入院中だし、移動する機会の多いセレブリティの罹患も今後、増えそうだ。

●コロナ余話/空港の検疫局でPCRから抗原検査へ

常時、帰国者の空港での検査体験動画をチェックしている私だが、7月30日から、これまでの鼻孔に綿棒を突っ込んでのPCR検査から、唾液採取の抗原検査に変わり、時間短縮でその日のうちに結果が通達されることになったのを知った。

朗報だが、政府が無料で用意してくれる、結果が出るまでの2夜のホテル代が浮かない顛末になったわけで、自費で丸々14泊分アレンジしなければならなくなった。

しかも、インドの場合、臨時便は、デリー発羽田着の日本航空便(往路のみ)、羽田周辺で自主隔離のためのホテルを当たらなければならなくなったので、成田周辺ばかり調べていた私は拍子抜け。

有名なホテルチェーンがいくつかあるようだが、これから帰国者が増えてくると、空室があるのかと心配になる。唾液で調べられるようになったのは、検査される側としてもうれしいが、マレーシア在住のミュージシャン、ガクト(GACKT)が出している動画によると、空港での検査手順がお粗末で、延々6時間以上も待たされたそうだ。

待機場所も、トイレもないような、椅子がばらばら置かれただけの場所で、座れない人たちは、ショーウインドウのへりに腰掛ける羽目に陥らされたようだ。しかも、ソーシャル・ディスタンスがとられておらず、密になっていたとか。

ちょうど検査法が変わった当日に着いたせいもあったと思うが、事務局は対応に追われて大変だと一応ねぎらいながらも、不手際に対する苦情を洩らしていた。私が帰るころには、改善されていることを祈るばかりだ。

(「インド発コロナ観戦記」は「観戦(感染)記」という意味で、インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いており、随時、掲載します。モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、感染していません。

また、息子はラッパーとしては、インドを代表するスターです。13億人超と中国に次ぐ世界第2位の人口大国、インド政府は3月24日に全28州と直轄領などを対象に、完全封鎖命令を発令し、25日0時から21日間、完全封鎖し、4月14日に5月3日まで延長し、5月1日に17日まで再延長、17日に5月31日まで延長し、31日をもって解除しました。これにより延べ67日間となりました。ただし、5月4日から段階的に制限を緩和しています。

8月13日現在、インドの感染者数は239万6637人、死亡者数が4万7033人、回復者が169万5982人、アメリカ、ブラジルに次いで3位になっています。州別の最新の数字の把握が難しく、著者の原稿のままを載せています。また、インドでは3月25日から4月14日までを「ロックダウン1.0」とし、4月14日から5月3日までを「ロックダウン2.0」、5月1日から17日までを「ロックダウン3.0」、18日から31日を「ロックダウン4.0」、6月1日から6月末まで「アンロックダウン(Unlockdown)1.0」、7月1日から「アンロックダウン2.0」と分類していますが、原稿では日本向けなので、すべてを「ロックダウン/アンロックダウン」と総称しています。

ただし、インド政府は5月30日に感染状況が深刻な封じ込めゾーンについては、6月30日までのロックダウンの延長を決め、著者が住むオディシャ州は独自に6月末までの延長を決め、その後も期限を決めずに延長しています。この政府の延長を「ロックダウン5.0」と分類しています)