和光がバレンタインフェア、生チョコ等、日大生がショーウインドウ

【銀座新聞ニュース=2021年1月20日】国内時計業界第3位のセイコーホールディングス(中央区銀座1-26-1)グループの百貨店、和光(中央区銀座4-5-11、03-3562-2111)は2月14日まで「和光アネックス ケーキ&チョコレートショップ」(中央区銀座4-4-8、03-3562-5010)で「バレンタインデーフェア」を開いている。

和光が2月14日まで販売しているバレンタイン限定ショコラ・フレ「スペシャリテ」。

また、和光アネックス1階の3つのショーウインドウには、日本大学芸術学部デザイン学科の学生がデザインしたディスプレイが展示されている。

今回は「大切な方との心の距離を縮めて、笑顔になって欲しい」をテーマに、フルーツの魅力を引き出したパフェの味わいを、一粒のチョコで表現したショコラ・フレ(生チョコ)「パルフェ」(10個入り、税込3800円)や、全47種類のフレーバーの中から選んで詰め合わせた限定品ショコラ・フレ「スペシャリテ」(3個入り1400円、5個入り2000円、10個入り3600円、15個入り5400円)をはじめ、フランス・ヴァローナのチョコと北海道産のバターを使用した濃厚なケーキ「テリーヌ ショコラ(3780円)などを販売している。

また、ソフトで軽い口溶けとカカオ本来の味わいが引き立つトリュフ「アデュルト」(5個入り2376円、10個入り4320円)はコニャック、ウイスキー、ラム、テキーラ、ジンの5種の洋酒を使用している。

そのほか、本格的なカカオの風味の「グラン クリュ」(5個入り1944円)はカカオ分64%から72%のクーベルチュールを使用している。ベネズエラ産(力強い苦みと深みのある香り、カカオ分72%)、ガーナ産(繊細な酸味とまろやかな風味、カカオ分68%)、エクアドル産(上品な苦みとフローラル系の香り、カカオ分66%)、ドミニカ共和国産(柑橘系の甘酸っぱさと香ばしい風味、カカオ分64%)、マダガスカル産(ベリー系の華やかな酸味、カカオ分64%)の5つの産地のカカオ豆を使っている。

シャンパン「ぺルトワモリゼ」をガナッシュに加えたトリュフ「トリュフ シャンパーニュ」(5個入り2376円)や一口サイズの板チョコ3種 (ストロベリー、ビター、ブロンド)を詰め合わせた「キャレ ド ショコラ」(12枚入り2200円)なども用意している。

営業時間は10時30分から19時まで。

丸善日本橋で岡英司「黒柿の木芸作品」展、安食ひろとのコラボも

【銀座新聞ニュース=2021年1月20日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は1月20日から26日まで3階ギャラリーで「出雲黒柿と暮らしの木工 おかや木芸作品展」を開いている。

丸善・日本橋店で1月20日から26日まで開かれる「出雲黒柿と暮らしの木工 おかや木芸作品展」に出品される作品。

「株式会社おかや」(島根県出雲市斐川町直江4844-1、0853-72-0538)が黒柿(くろがき)の木材を使った家具の「出雲黒柿(いずもくろがき)」をはじめ、栗、けやき、トチ、ナラ、桜などの素材を使い、卓と卓上の作品を中心に展示販売している。

また、今回は出雲の陶芸家、安食ひろさんとのコラボレーションで生まれた「黒柿立礼卓」なども展示している。

「おかや」によると、樹齢数百年を越える柿の古木のうち、ごく稀に黒色の紋様があらわれることがあり、この紋様があらわれた柿を「黒柿」と呼ぶ。柿材は硬く、密度が高いため、加工が難しい材料で、黒柿は黒い部分と白い部分で収縮率が異なるため、乾燥の途中で多くが割れてしまう。取り扱いの難しい木材だが、磨くほどに滑らかな木肌になり、美しい艶が出るという。

同じく出品される安食ひろさんの作品。

おかやは5代目経営者の岡英司さんを中心に7人の職人が創作し、国産の生材を乾燥させ、収縮、変形に強い乾燥材にして、木取りし、製品として加工している。1987年に島根県卓越伝統技能者として表彰されており、島根県出雲地方に伝わる伝統的な技法を基礎にした「おかや木芸」として黒柿を使った家具や栗の木を使った「栗乃舎(くりのや)」ブランドの家具などを制作販売している。

おかやは1952年に「岡屋材木店」として創業され、1961年に3代目岡恵吉(おか・けいきち)、4代目岡慶吉郎(おか・けいきちろう)が職人を指導し、木芸品の制作をはじめ、1970年に原木から素材管理、ろくろ、指物、くり物、漆までの一貫した工程において手仕事を維持すべく、工芸制作に専門化し「おかや木芸」を使用している。

1980年に5代目岡英司さんが創作木芸を標榜し、制作活動をはじめ、1982年に「(有)おかや木芸」を設立、1985年に「クラフトショップ工芸おかや」を開店、ギャラリーを併設し、現代作家の個展、クラフトの企画展などをはじめ、1986年に日本クラフト展に初入選、1987年に島根県卓越伝統技能者として表彰され、島根県ふるさと伝統工芸品に「木芸品」として指定され、1994年に栗の手づくり家具を発表、1995年に山陰暮らしの工芸展奨励賞、斐川町卓越工芸品を表彰された。

2004年に今上天皇(現上皇)に黒柿拭漆硯箱を献上、2007年に旧店舗を再生し、「古民家ギャラリー栗乃舎」として再利用、2008年、2010年、2011年に島根県優秀技能者と表彰される。2011年から「栗乃舎」シリーズを発表、2012年に「出雲黒柿」シリーズを発表している。

安食ひろさんは1948年島根県平田市生まれ、1987年に田部美術館茶の湯造形展で大賞(1996年と2003年に奨励賞、2000年に優秀賞)、1996年に淡交ビエンナーレで特別賞(1998年に奨励賞)、2005年にインドにて茶会と個展、アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館に作品を収蔵、2006年に新潟県長岡市の「ぎゃらりい栗本」で個展(2009年、2011年、2014年、2017年、2020年も)、2008年に隠居宣言、2011年に新潟県小千谷市の「習静庵」で茶会(2016年、2019年も)を開いている。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。

「2020年」(7.遺された紫水晶<柿沢智(在インド駐在員)>)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2021年1月19日】柿沢智(かきざわ・さとし)は大手広告代理店勤務の34歳、ただし、東京本社でなく、インドの首都デリーの近郊、グルガオンに駐在して1年ちょっとになる。

アメリカへの留学歴で堪能な語学力を買われて、28歳からタイの首都バンコクに派遣され、そこで5年駐在、任務を全(まっと)うして本社に帰還するつもりでいたら、見事、期待を裏切られ、今度は、インドに飛ばされることになった。

正直、インドにはあまりいい印象を抱いていなかったので、面食らった。タイ駐在員時、偶然現地で知り合った6歳年下の日本女性と結婚を前提に付き合っており、本社勤務に戻ったら、身を固めるつもりでいたため、予定が狂って内心困惑した。

彼女は理解を示してくれたが、インド駐在は、そういうこともあって、最初から望まない赴任だった。

しかし、日系企業の集積地であるグルガオンは、インド切っての発展都市で、インフラが整備されており、暮らしていくには不自由なかった。高層マンションの3LDKの生活は、日本のウサギ小屋とはダンチで、現地人の掃除人、料理人、ドライバー付きと優雅だった。

バンコクでも、比較的恵まれた環境だったが、インドは部屋の広さといい、使用人の数といい、バンコク以上だった。カースト制度というのがあって、細かく役割分担されているからだそうで、たとえば、室内掃除も、皿洗い、洗濯・トイレ掃除は最下位のアウトカーストの職分で仕分けされなければならないのだった。

いわゆる階級差別の歴然とした社会で、平等な日本で育った智には面食らうことも多く、たくさんいる使用人を使いこなすのは大変だった。律儀で勤勉な日本人と違って、ルーズで怠惰癖のある現地人ゆえ、時には声を荒げなければならないこともあった。それでも、前任者からの引き継ぎのため、コックは寿司などの日本料理が作れ、重宝した。

仕事面でも、デジタル広告のシェアがトップと業績が目覚ましく、やりがいがあった。現地企業を買収して合弁、パイを増やし続けてきたM&A戦略が功を奏したのである。クライアントと組んでの広告の企画提案・作成が主な仕事だったが、年長ということで5名いる現地スタッフのチーフも任せられていた。

だから、1年以上が過ぎて、やっと現地の環境に慣れて、仕事もスムーズに運び出した3月下旬、コロナ禍によるロックダウンを発令されたときは、うろたえた。日本と比べても、感染者はさして多くなかったし、このタイミングで何故と、部外者としては見くびったのである。

しかし、その後、3月半ばに首都で行われたイスラム集会で大クラスターが発生していたことが発覚、信者の移動で地方にも拡散した。

さらに、大都市に出稼ぎに行っている移民労働者が帰省手段を絶たれ、巷に巨大密集、やがて救済に乗り出した各州が引き上げたことで、全土的に感染爆発、歯止めが効かなくなった。

感染トップ州のひとつとして悪名高かった首都から30キロしか離れていないグルガオンの感染者数も急増、在留邦人にも感染者が出た。

現地スタッフ2名は安全のため本国に退避させ、残り1人と2人だけでリモートワークをシェアしていたが、最後の1人も6月に臨時便で帰還させた。そして、8月に入って智自身にも、本社から退却命令が出た。

彼女も喜んだし、個人的にはほっとする思いもあったが、やり残した仕事を思うと、残念だった。最後に残された責任者として役目を全うしたかったが、果たせず志半ばで去らねばならない。

8月からインド日本商工会がチャーター便を運航、それに乗って戻ってきた先行帰印組2人と入れ替わりに、臨時便で発った。

機内は空いていた。客はほとんど同胞、安定飛行に入り、ベルトを外して洗面所に立ったとき、2つ前の席の年配女性に見覚えがあった。正確に言うと、彼女の付けている紫水晶のペンダント、にだ。

どこで、見たんだっけ。智は首をひねり、考え続けた。席に戻ってひととき後に思い当たった。

アジャンタ・エローラ遺跡でだ。ムンバイ支社に出張中、日本からのお客さんをもてなすため、高名な世界遺産の遺跡に伴ったのだ。まだロックダウン前のことで、有名観光地は外国人で賑わっていた。

日本人も何人かいて、そのうちのひとりがエローラ岩窟寺院群のひとつで、一枚岩から掘り起こされた8世紀の壮大なカイラーサナータ寺院を見学中に、ペンダントを落としたのを、目撃したのだ。

ちょうど、スニーカーの紐がほどけたのを結び直しているところに、目の前に留め金が外れたシルバーの鎖付きの紫色の石が鼻先を掠めて着地したのである。

すぐに拾い上げて、気づかずに歩を進める落し主らしい同胞女性を追いかけて、
「失礼します。もしかしてこれは、あなたのものではありませんか」
と、問い質した。

女性はあっと声をあげ、智の差し出すペンダントに手を伸ばし、大事そうに掌中に包み込んだんだ。
「すみません。何とお礼を言っていいか。この紫水晶のペンダントは母の形見なんです。本当にありがとうございました」
恐縮して何度も礼を言った。

帰り際、また鉢合わせし、丁重に重ねて礼を言われた。
「本当にありがとうございました。亡くなった母も遺跡が好きで、インドでは、タージ・マハルのほかに、アジャンタ・エローラに行きたがっていたんです」

「そうでしたか。お役に立てて何よりでした」

あのときの女性だ。あれから後、ロックダウンに遭遇、国際線も停止して、予定の便がキャンセル、長々と現地にとどまる羽目を余儀なくされたものだろう。話しかけようかと一瞬迷ったが、あのときとあまりに状況が転変しすぎて、互いに顔半分を覆ったマスク姿、非常時で緊張が張り詰めている機内ゆえ、会話を交わすことは躊躇(ため)われた。

インドの累計感染者数は300万人以上、この分でいくと、世界ワースト2位のブラジルを抜くのではないかとの憶測も出ていた頃だったから、機内は緊迫ムードに包まれていて、とても和(なご)やかに会話を交わす雰囲気でなかったのである。

途中、飛行機が乱気流に呑まれ、烈しく揺れた。少ない乗客がざわつく気配があり、男の自分でも、生きた心地はしなかったから、やっと安定飛行に戻ったとき、2つ前の女性はさぞかしほっとしているだろうと、思いを馳せた。昨年亡くなった叔母に何となく雰囲気が似ていて、気にかかるのはそのせいかもしれなかった。

無事、母国の空港に帰着し、アナウンスに従って、会社からの送迎車が出る予定の自分は、先行組として降下する。女性の席を過ぎたとき、本人の姿は見当たらなかった。座席のクッションに埋もれるように渦を巻いた銀鎖と、そこから突出するように、大粒の紫水晶がきらりと、智の目を射るように光った。嫌な胸騒ぎがした。

しかし、後ろに並んだ人に急かされて否応なく、出口に送られた。昨夜の烈しい揺れで気分を悪くして、ゆったりできる前の座席にでも、キャビンアテンダント(CA)の誘導で移されたのかもしれない。いずれにしろ、形見のペンダントは、間違いなく本人の手に戻るといいのだが。

タラップを降りた智は、これから待ち受ける抗原検査に思いが移り、陰性でありますようにと念じた(「2020年」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)。

丸善日本橋で平野恵子、永森みさお、海の姉妹展、溶岩染ストール等

【銀座新聞ニュース=2021年1月19日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は1月20日から26日まで3階スパインスペースで「『今年じたく』part1-マリンスター・lam・あめつち..三人展」を開く。

丸善・日本橋店で1月20日から26日まで開かれる「『今年じたく』part1-マリンスター・lam・あめつち..三人展」のフライヤー。

2週にわたって「今年じたく」というタイトルで3人展を開く。第1弾が天然石、アコヤパール、南洋真珠を組み合わせたアクセサリー、天然石を使った彫金アクセサリーを制作し、天然石工房「マリンスター」を主宰する平野恵子さん、大島紬(おおしまつむぎ)と革を使ってバッグ「ラム(lam、ベトナム語で「つくる」の意)」を制作している永森みさおさん、「素材は地球のかけらです」をテーマに「あめつちの袋」や「なみまくら(波枕)」、溶岩染めストールなどを「あめつち..」ブランドで展開する海の千恵さんと理恵さん姉妹が作品を展示する。

ウイキペディアによると、大島紬とは、鹿児島県南方の奄美群島(主に奄美大島)の伝統工芸品としてつくられる織物で、手で紡いだ絹糸を泥染めしたものを手織りした平織の絹布、もしくはその絹布で縫製した和服をさす。

染色の工程で糸に鉄分が染み込むため着崩れや虫食いしが起きにくく、孫子の代まで長く使える。独特の黒褐色を基調とした繊細な折柄の美しさも評価され、日本の絹織物のうちでも高級品として知られる。安い物で一反30万円程度、最高級品は数百万円する。現代では「色大島」、「白大島」など色調・柄の多様化が進んでいる。

1980年に伝統的工芸品に指定された際、1)絹100%、2)先染めした糸を手織りする、3)平織り、4)締機(しめばた)で手作業によりタテ・ヨコ絣の加工をしたもの、5)手機(てばた)でタテ・ヨコ絣をカスリ合わせて織り上げたもの、と定められた。奄美大島には事業者でつくる「本場奄美大島紬織物協同組合」がある。

「大島紬村」によると、460年ころに唐から養蚕を導入し、661年ころに古代染色が始まり、奄美でもテーチ木染が始められた。952年に桑園が奨励され、奄美でも養蚕が行われ、1595年に江戸時代の初め頃から、特に奄美では古代手紬の製法技術が著しく進歩し、琉球各村に紡績織物工場の設立を奨励した。

1720年ころに薩摩藩が「紬着用禁止令」を出し、島役人以外の紬着用を禁じている。1829年ころに、絣(かすり)の技術を取り入れ、1871年ころに第1次技術革新期がはじまり、廃藩置県に伴い、生産販売が自由化され、家内工業から工場生産へ移行(鹿児島で生産)し、泥染め法が開発された。1895年ころに手紬糸から玉糸を使用、市場で人気が高まり、1902年に絣締機が発明される。

1929年に泥大島紬に部分的な着色法が開発され、合成染料が取り入れられ、派手な変化に富んだ柄模様ができ、1940年に「奢侈品製造禁止令」が出され、優秀品の生産が停止される。1945年に大東亜戦争により、大島紬の生産が停止され、1950年に米軍政下資金により原料糸(本場奄美大島)が入手され、織口となった。1954年に「紬組合」を改組し、「本場奄美大島紬共同組合」が設立された。1955年に技術革新により、伝藍染の抜染法が開発され、合成染料による色大島が出現し、白地大島も生産された。

ただ、ウイキペディアでは、「大島が紬と言えるのは明治初年くらいまでであり、現在では撚糸を使い、紬とは言えなくなっている」(「大島絣」)。それまでの大島製作法は現在の結城紬(茨城県)とまったく同じものであり、ただ製糸する時に使う糊が結城では米糊、大島では海苔(ふのり)、イギスといった海草を使う違いのみとしている。

平野恵子さんは彫金、天然石アクセサリーを趣味で作ってきたが、2007年12月に彫金、天然石アクセサリーの工房「マリンスター」を開設、百貨店などで展示販売している。

永森みさおさんは杉野学園ドレメを卒業、アパレルメーカーに勤務、パタンナーとして働き、2012年より会社の傍ら、真渋工房でバッグの制作について学び、その後、独立して2015年2月より大島紬と革を使ったバッグ「lam」ブランドで活動を開始、百貨店を中心に販売している。

海の千恵さんと理恵さん姉妹は山口県岩国市生まれ、姉の千恵さんは上京後、仕事のストレスや、産後の体調不良がきっかけで、アロマテラピーの勉強をはじめ、自宅サロン「Prunier(プルニエ)」を主宰し、自宅などでイベント、デイサービスのセラピストとして活動し、2018年3月に姉妹で「あめつち..」ブランドをたちあげている。

妹の理恵さんは大学でフランス語を専攻し、フランスに留学、卒業後はフリーでキッズ英語やフランス語を教え、姉の千恵さんが開くサロンのイベントで「アイピロー」を製作販売したのを機に「あめつち..」ブランドの立ち上げに携わっている。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は16時)まで。

志門で「ドローイング」入選者展、都美術館で9回大賞、入賞者展(2)

(終わりに東京都美術館での第9回「ドローイングとは何か」入賞・入選作品展について載せ、見出しを変え、画像を追加しました)
【銀座新聞ニュース=2021年1月18日】ギャルリー志門(中央区銀座6-13-7、新保ビル、03-3541-2511)は1月18日から30日まで「Walk the Line vo.6-線に生きる作家たち」を開いている。

ギャルリー志門で1月18日から30日まで開かれる「Walk the Line(ウォークザライン)vo.6-線に生きる作家たち」の前期18日から23日までのフライヤー。

「ドローイングとは何か」は審査員で美術評論家の金沢毅さんが中心になって、「ドローイング」を完成された線描画とし、習作や下絵と一線を画した作品を発表する場を公募展として立ち上げ、2010年からはじめ、2020年が9回目になる。

「ドローイング」とは本来、絵の具で面を塗る「ペンチュール(peinture)」とは対照的な画法で、線画、線描画を意味するが、日本の現代美術界では、紙に描いた習作や下絵を「ドローイング」と称することがある。金沢毅さんは「ドローイング」を完成された線描画としてとらえている。

今回は前期と後期に分けて、全体で準大賞と入選者36人が新作を展示する。そのうち、前期は18日から23日までで、出品するのは、第9回に出品した赤木美奈さん、第6回と第7回に出品した朝日宣弘さん、第3回に出品した井上新之介さん、第8回と第9回に出品した小倉信一さん、第5回、第6回、第7回、第9回に出品した梶谷令さん。

第9回に出品した門谷京子さん、第9回に出品した河西紀亮さん、第9回に出品した肥沼義幸さん、第8回、第9回に出品した工藤沙由美さん、第1回に出品した近藤平八郎さん、第9回に出品した櫻井健さん、第7回、第9回に出品した多田吉民さん、第5回、第9回に出品した中村綾乃さん、第2回に出品した細木るみ子さん、第4回、第5回に出品した森本玄さん、第8回に出品した山田琢矢さん、第3回、第5回、第6回に出品した山村まゆ子さん、第9回に出品した脇威志さん。

開場時間は11時から19時(最終日は17時)、入場は無料。

また、1月20日から26日まで東京都美術館(台東区上野公園8-36、03-3823-6921)のギャラリーB(地下3階)で第9回全国公募「ドローイングとは何か」入賞・入選作品展を開く。

第9回「ドローイングとは何か」で大賞を受賞した清野和正さんの作品「かけがえのないもの3」。

第9回「ドローイングとは何か」は応募者153数人、作品数258点で、第1次審査が2020年10月27日に銀座3丁目の美術家会館で、第2次審査が11月8日にギャルリー志門で行われた。

審査員は美術評論家の金沢毅さん、版画家の中林忠良さん、美術家の木下晋さん。

その結果、大賞には1979年東京都生まれ、2006年に多摩美術大学造形表現学部造形学科油画専攻卒業の清野(せいの)和正さんの「かけがえのないもの3」(KMKケント紙、鉛筆)が選ばれた。

また、準大賞には1978年長野県生まれ、2003年に多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻卒業の酒井崇さんの「土の記憶」(和紙、ボールペン)と1975年福島県生まれ、1998年に福島大学教育学部中学校教員養成課程美術科卒業、2000年に同大学大学院 教育学研究科修士課程美術教育専攻修了の相馬亮さんの「私だって飛べるはず」(鉛筆、木炭、ジェッソ、水彩)が選ばれた。

さらに、今回は東京都美術館での展示会のため、「審査員特別賞」を新たに設け、1996年中国吉林省生まれ 2018年に大連大学美術学院版画科卒業、現在、武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻版画コース在籍の郭嘉金(かく・かきん、金は正しくは金を3つ合わせた漢字)さんが選ばれた。ほかに、宗像一幸さんら34人が入選し、これら38人の作品を展示する。

また、招待作家と歴代の大賞作家も出品する。招待作家は木下晋さん、髙木公史さん、三浦明範さん、箕輪千絵子さん、山田彩香さんの5人。

歴代の大賞作家は、池田俊彦さん、柴田高志さん、安藤圭汰さん、辻野榮一さん、森本玄さん、成田玄治さん、大島愛さん、加藤力さんの8人。

開場時間は9時30分から17時30分(最終日14時30分)まで。関係者を対象に19日15時から17時までプレオープンし、15時30分から授賞式、16時からギャラリートークを開く。