大丸松坂屋画廊で佐久間友香「少女画」展

【銀座新聞ニュース=2020年7月30日】国内百貨店業界2位の流通グループ、J.フロントリテイリング(中央区八重洲2-1-1)傘下の大丸松坂屋百貨店(江東区木場2-18-11)が運営するアートギャラリー「Artglorieux GALLERY OF TOKYO」(中央区銀座6-10-1、GINZA SIX、03-3572-8886)は7月30日から8月5日まで佐久間友香さんによる個展「まひるのつき」を開いている。

大丸松坂屋百貨店の「アールグロリュー ギャラリーオブトーキョー(Artglorieux GALLERY OF TOKYO)」で8月5日まで開かれている佐久間友香さんによる個展「まひるのつき」に出品されている「居待月」。

「美人画」で知られる佐久間友香(さくま・ゆか)さんが新作を中心に女性画を展示する。佐久間友香さんについては「少女達を通して描かれる独特の世界感」があり、「あの時こうしていたら・・・」とか「違う選択をしていたら・・・」など、時に大きな決断を下しながら今に至った私達が、「もしあの時に違う決断をしていたら、どんな違う今を生きていただろう。佐久間が描くのは、葛藤の中で生まれた、そんなもう一つの世界なのではないだろうか」(アールグロリュー)としている。

また、「今にも何かを語りだしそうな表情をした少女達は、そんな異世界の住人であり、彼女自身なのかもしれません。存在は感じることが出来るのに、隠されていて容易に見えないもの。葛藤や本心、想像した違う世界」を表現している。

ウイキペディアによると、美人画とは「美しい女性」をモチーフにした絵画と思われがちだが、必ずしも「美人」を描いたものではなく、浮世絵の美人画は様式化されたもので、美しい女性をリアルに描いたものではない。

美人画という用語は、1940年代から1950年代の頃に文部省美術展覧会で醸成されて造られた言葉で、それ以前は、女性をモチーフとした浮世絵に見られる諸作品は「美人絵(びじんえ)」や「女絵(おんなえ)」として分類されていた。特に「女絵」は源氏物語絵巻にあるような引目鉤鼻の記号的な女性図をも含んでいた。

明治末期頃は、新しい女性像を提案する画家の台頭や、過去の封建的な女性に対する社会的認知が変化を見せ始めたことが「美人画」という新しい分類が生まれた一因とみなされている。

江戸時代初期には「寛文美人図(かんぶんびじんず)」のような作品が現われ、これが浮世絵にも流れ込み、初期には菱川師宣(ひしかわ・もろのぶ、1618-1694)の肉筆美人画「見返り美人」がある。その後、錦絵の確立とともに、華奢で少女のようなあどけなさを持つ女性を多く描いた鈴木春信(すずき・はるのぶ、1725-1770)の美人画が流行した。

天明期には鳥居清長(とりい・きよなが、1752-1815)の八頭身で手足が長く描かれた美人が好評となり、寛政年間には喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ、1753?-1806)が、より肉感的に美人を描き、大首絵などで一世を風靡した。

文化・文政期以降になると嗜虐趣味や屈折した情念を表すような退廃的な美人画が広まり、京都でも円山派を中心に、京阪の富裕な商人層に向けて美人画が描かれた。

浮世絵の女性の描き方には独特の傾向があり、小さい、あるいは切れ長の細い目、細面や下膨れした顔といった女性像が特色とされている。

佐久間友香さんは1990年愛知県名古屋市生まれ、愛知県立芸術大学美術学部日本画専攻を卒業、同大学大学院博士前期課程日本画領域を修了、2014年に同大学卒業・修了制作展で優秀作品賞(作品買い上げ)、第2回三芸大学生選抜H/ASCA展で優良賞、2015年に第6回星野真吾賞展で入選、「アートアワードネクスト(ART AWARD NEXT)3」で入選している。現在、名古屋芸術大学講師。

8月1日から3日まで佐久間友香さんが来場する。

開場時間は10時30分から20時30分(最終日は18時)まで。入場は無料。

全生庵で円朝コレクションの幽霊画展、応挙、容斎、晴雨、暁斎ら

【銀座新聞ニュース=2020年7月30日】三遊亭円朝の墓所があり、山岡鉄舟が明治期に建立した全生庵(台東区谷中5-4-7、03-3821-4715)は8月1日から31日まで「幽霊画展」を開く。

左から伊藤晴雨「怪談乳房榎図」、池田綾岡「皿屋敷」、鰭崎英朋「蚊帳の前の幽霊」。すべて全生庵の所蔵で、毎年8月のみ一般公開される。

全生庵(ぜんしょうあん)に所蔵されている三遊亭円朝(さんゆうてい・えんちょう、1839-1900)遺愛の幽霊画コレクション(50幅)を毎年8月だけ公開しており、今回も1カ月、無休で約30幅を公開する。

ウイキペディアによると、全生庵は1880(明治13)年に幕臣で明治天皇(めいじてんのう、1852-1912)の侍従も務めた山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう、1836-1888)が明治維新(1867年から1877年ころ)に殉じた人々の菩提を弔うために創建を発願し、国泰寺(こくたいじ、富山県高岡市太田184)から松尾義格(まつお・ぎかく、1837-1884)を開山に招へいして1883年に創建した。

しかし、鎌倉時代(1185年から1333年)中期の1246(寛元4)年に、南宋(1127年から1279年)から渡来した禅僧、蘭溪道隆(らんけい・どうりゅう、1213-1278)が当時の江戸に九死に一生を得て漂着し、「全生庵」という庵室を作って閑居していた旧跡だったことがわかり、1883年に「全生庵」を寺号とした。

三遊亭円朝(さんゆうてい・えんちょう、1839-1900)の墓があり、毎年8月11日ころに、本庵、落語協会、円楽一門会がそれぞれ本庵でイベントを開く。また、円朝の幽霊画コレクションが所蔵されており、「足のない幽霊」を最初に描いたといわれる伝 円山応挙(まるやま・おうきょ、1733-1795)の作品をはじめ、柴田是真(しばた・ぜしん、1807-1891)、菊池容斎(きくち・ようさい、1788-1878)、松本楓湖(まつもと・ふうこ、1840-1923)、伊藤晴雨(いとう・せいう、1882-1961)、河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい、1831-1889)ら、幕末から明治の画家の筆による幽霊画が収蔵されている。

三遊亭円朝(本名は出淵次郎吉=いずぶち・じろきち=)は1839(天保10)年4月1日に初代橘屋円太郎(初代円橘)の息子として江戸湯島切通町生まれ、1845(弘化2)年3月3日に初代橘家小円太の名で江戸橋の寄席「土手倉」で初高座、1847(弘化4)年に2代目三遊亭円生(さんゆうてい・えんしょう、1806-1862)の元で修業し、1849(嘉永2)年に二つ目に昇進、1851(嘉永4)年に浮世絵師の歌川国芳(うたがわ・くによし、1798-1861)の内弟子となり、画工奉公や商画奉公をし、1855(安政2)年3月21日に「円朝」を名乗り、真打に昇進した。

1858(安政5)年に鳴物入り道具仕立て芝居噺で旗揚げし、1872(明治5)年に道具仕立て芝居噺から素噺に転向、1875(明治8)年に6代目桂文治(かつら・ぶんじ、1843-1911)と共に「落語睦連」の相談役に就任、1880(明治13)年に山岡鉄舟の侍医、千葉立造(ちば・りつぞう、1844-1926 )の新居披露宴の席で、同席していた天龍寺の滴水和尚(てきすい・おしょう、1822-1899)から「無舌居士(むぜつ・こじ)」の道号を授かる。

1888(明治19)年1月8日に井上馨(いのうえ・かおる、1836-1915)の共をして身延山参詣や北海道視察(8月4日より9月17日)に同行、1891(明治24)年6月に席亭との不和で寄席の出演を退き、新聞紙上での速記のみに明け暮れ、1892(明治25)年に病のために廃業し、1897(明治30)年11月に弟子の勧めで高座に復帰したものの、1899(明治32)年9月に発病し、10月に木原店で演じた「牡丹燈籠」が最後の高座となり、1900(明治33)年8月11日2時に逝去した。病名は「進行性麻痺」と「続発性脳髄炎」で、法名は「三遊亭円朝無舌居士」。墓は全生庵にあり、東京都指定旧跡となっている。

全生庵によると、幽霊画コレクションは三遊亭円朝が1875(明治8)年に柳橋で怪談会を催した時から百物語にちなんで百幅の幽霊画を蒐集しはじめたものの一部とされてきた。藤浦周吉(屋号は三周、ふじわら・しゅうきち)、藤浦富太郎(ふじうら・とみたろう、1885-1980)父子が三遊亭円朝の名跡を借金の担保にして、三遊亭円朝を経済的に支援したことから、1900年以来、「三遊亭円朝」という名跡は藤浦家のものになり、藤浦家はこの名を落語家に名乗らせていない。

また、三遊亭円朝は100幅揃わないうちに亡くなったが、藤浦周吉が充実させて、1922(大正11)に40幅を全生庵に寄贈し、その後もコレクションを50幅まで増やした。50幅は飯島光峨(いいじま・こうが、1829‐1900)、柴田是真、池田綾岡(いけだ・あやおか、1840-1910)、川端玉章(かわばた・ぎょくしょう、1842-1913)、菊池容斎、渡辺省亭(わたなべ・せいてい、1852-1918)、松本楓湖、佐竹永湖(さたけ・えいこ、1835-1909)、谷文一(たに・ぶんいち、1786-1818)、谷文中(たに・ぶんちゅう、1823-1876)、月岡芳年(つきおか・よしとし、1839-1892)。

歌川国歳(うたがわ・こくさい、生没年不詳)、歌川広重(うたがわ・ひろしげ、1797-1858)、歌川芳延(うたがわ・よしのぶ、1838-1890)、4代目勝文斎(かつ・ぶんさい、1835‐1908)、河鍋暁斎、高橋由一(たかはし・ゆいち、1828-1894)、尾形月耕(おがた・げっこう、1859-1920)、歌川芳中(うたがわ・よしなか、生没年不詳)、関口雪翁(せきぐち・せつおう、1753-1834)、川上冬崖(かわかみ・とうがい、1828?-1881)、兵藤林静(ひょうどう・りんせい)、鰭崎英朋(ひれざき・えいほう、1880-1968)、加藤雪窓(かとう・せっそう、1872-1918)、高嶋甘禄(たかしま・かんろく)らの作品である。

開場時間は10時から17時(最終入場は16時30分)。無休。入館料は500円。

アイデムが安島太佳由「沖縄、ペリリュー等激戦地」展、戦後75年

【銀座新聞ニュース=2020年7月29日】求人広告・企画会社のアイデム(新宿区新宿1-4-10、アイデム本社ビル、03-5269-8711)が運営する写真ギャラリー「シリウス」(アイデム本社ビル2階、03-3350-1211)は7月30日から8月5日まで安島太佳由さんによる写真展「太平洋戦争激戦地慰霊景-沖縄・サイパン・ペリリュー・フィリピンを辿る」を開く。

アイデムの写真ギャラリー「シリウス」で7月30日から8月5日まで開かれる安島太佳由さんの写真展「太平洋戦争激戦地慰霊景-沖縄・サイパン・ペリリュー・フィリピンを辿る」に展示される作品。

戦争の傷跡を取材撮影している写真家の安島太佳由(やすじま・たかよし)さんが敗戦後75年目にあたる今回、太平洋戦争(大東亜戦争)で戦死した多くの兵士や戦闘に巻き込まれて命を落とした民間人への慰霊の思いを込めて激戦地の沖縄、サイパン、ペリリュー、フィリピンを訪ね、戦死者を慰霊するための碑やモニュメント、戦闘を伝える資料館の展示物、戦闘地の跡や洞窟、朽ち果てた武器の残骸など、過去を想像しながら五感を通して感じるままに撮影した写真、カラー45点を展示する。

安島太佳由さんはこのほど、写真集「太平洋戦争激戦地慰霊景-沖縄・サイパン・ペリリュー・フィリピンを辿る」(1500円)を刊行し、それを記念した写真展となっている。

ウイキペディアによると、大東亜戦争(Greater East Asia War)は1941(昭和16)12月10日の大本営政府連絡会議で支那事変(1937年7月7日以降)と「対米英戦争」を合わせた呼称として「大東亜戦争」呼称が確認され、12月12日の閣議決定で「大東亜戦争(Great East Asia War)」とし、戦時分界時期は1941年12月8日1時30分と決定した。同日内閣情報局は、アジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指す「大東亜新秩序建設」を戦争目的とした。

戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が1945年9月19日に発令したプレスコード(SCAPIN-33「日本に与うる新聞遵則」)により、「大東亜戦争」の使用を避けるように指令し、12月8日(開戦4周年)以降、新聞各紙でGHQ民間情報教育局作成の「太平洋戦争史-真実なき軍国日本の崩壊」の掲載から正式に「太平洋戦争」が使われるようになった。

さらに、12月15日の神道指令で、軍国主義・国家主義を連想させるとして「大東亜戦争」呼称の使用を公文書において禁止した。1946年、法律や勅令の文言は「今次ノ戦争」と改められ、1960年頃から一種のタブー扱いとされ、「大東亜戦争」はメディアでの使用は控えられ、日本政府はGHQの政策以降、現在まで公的には「今次戦争」や「先の大戦」あるいは「第2次世界大戦」などを用いている。ただし2006年から2007年(平成18年度)の政府見解では「大東亜戦争」や「太平洋戦争」の定義を定める法令はないとされている。

1952年4月11日に公布された「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」(法律第81号)によって、GHQの「大東亜戦争」呼称廃止覚書は失効している。

連合国においては、主戦場が太平洋地域であったことから「パシフィック・シアターPacific Theater(太平洋戦域)」が使用され、「the War in the Pacific (Theater)」や「WW II-Pacific Theatre」や「the Pacific Theatre in the Second World War」など第2次世界大戦の戦線・戦域名が用いられ、戦時中は「太平洋戦争」という名称が使われたことはなかった。

大東亜戦争(1937年7月からの支那事変を除く)は1941年12月8日未明(日本時間)に日本陸軍が英国領マレー半島攻撃(マレー作戦)により始まり、8日3時19分(ハワイ時間7日7時49分)に日本海軍がアメリカ軍のハワイ基地を攻撃して(真珠湾攻撃)はじまった。

しかし、8日4時20分(ワシントン時間7日14時20分)に、来栖三郎(くるす・さぶろう、1886-1954)特命全権大使と野村吉三郎(のむら・きちさぶろう、1877-1964)大使がコーデル・ハル(Cordell Hull、1871-1955)国務長官に交渉打ち切りを通告する最後通牒「対米覚書」を手交し、宣戦布告した。

英国には8日7時30分に外務省が駐日大使のロバート・クレイギー(Robert Leslie Craigie、GCMG、CB、PC、1883-1959)を呼び、ワシントンでハル国務長官に手渡したのと同文の対米「覚書」の写しを手渡し、宣戦布告した。この結果、米英に対し、宣戦布告前に攻撃するという不意打ちを行う形となった。8日、オランダは日本に宣戦布告した。

ただし、アメリカは日本海軍の暗号解読によって、日本による対米交渉打ち切り期限を3日前には予想し、対米覚書に関しても外務省より手渡される30分前には全文解読を済ませていた。

その後アメリカ西海岸、アラスカからタヒチやオーストラリアを含む太平洋のほぼ全域から、東南アジア全域、インド洋のアフリカ沿岸までを舞台に、枢軸国と連合国とが戦闘を行ったほか、日本と英米蘭の開戦を機に12月10日に蒋介石(しょう・かいせき、1887-1975)の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告し、支那事変も包括する戦争となった。また、12月11日にはドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告した。

1942年5月の珊瑚海海戦までは日本が勝利していたが、6月に行われたミッドウェー海戦で大敗し、この後はほとんどの戦いで敗戦が続き、1945年8月15日にポツダム宣言を受け入れて日本の敗戦が決定し、9月2日にアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、英国、アメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席の下、日本政府全権重光葵(しげみつ・まもる、1887-1957)外務大臣と、大本営全権梅津美治郎(うめづ・よしじろう、1882-1949)参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、戦争が終結した。

激戦地の沖縄戦(連合軍ではアイスバーグ作戦=Operation Iceberg=、氷山作戦)は1945年3月26日から6月23日までの戦い(ただし、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日)で、沖縄本島と周辺島嶼、海域が激しい戦闘が展開され、連合軍は日本本土攻略のためのマリアナの基地と共同体制をとれる対日本本土爆撃のための航空基地確保と、日本本土進攻の補給基地の確保が目的だった。

日本軍は、大本営(主に日本海軍軍令部)が特別攻撃隊を主力とする航空攻撃により連合国軍に大打撃を与えて、有利な条件で講和を結ぼうという「一撃講和」をめざす一方で、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」(持久戦)を意図するという不統一な状況だった。

日本側の犠牲者(人的損害)が陸軍戦死者が6万7900人、海軍戦死者1万2281人、捕虜が1万人、沖縄県民死者(含む行方不明)12万2228人(内民間人9万4000人)とされている(1976年3月に沖縄県が発表)。

アメリカの人的損害は総死者が2万195人(内戦死者1万2520人から1万4006人)、戦傷者5万5162人(戦闘外傷病者2万6211人)、英国の人的損害が死者85人、戦傷者82人とされている。

激戦地サイパン戦は1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦闘で、斎藤義次(さいとう・よしつぐ、1890-1944年7月6日)中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス(Holland M.Smith、1882-1967)中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖海戦(6月19日と20日)が発生した。

戦力は日本軍が3万1629人、アメリカ軍が6万6779人で、人的損害は日本側が戦死約3万人、捕虜が921人、民間人死者が8000人から1万人、アメリカ側が戦死3441人、戦傷が1万1685人だった。

激戦地ペリリュー戦は1944(昭和19)年9月11日から11月27日にかけペリリュー島(現パラオ共和国)で行われた、日本軍守備隊とアメリカ軍の陸上戦闘で、アメリカ側の作戦名は「ステールメイトⅡ作戦(Operation Stalemate Ⅱ)」と呼ばれた。

日本側人的損害が戦死1万0695人、捕虜202人、最後まで戦って生き残った者34人、アメリカ側が戦死2336人、戦傷8450人、戦病者2500人以上。

日本側は要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術にアメリカ軍が苦しめられ、師団長は従軍記者らに戦闘は激しいが4日で終わるという楽観論を述べていたたが、最終的に73日もかかり、ペリリュー戦については、アメリカ軍内では日本軍の頑強な抵抗への評価が高い一方で、ペリリュー島攻略のメリットがその莫大な損失に見合うものだったのかという疑問が今日でも投げかけられている。

激戦地フィリピン戦はアメリカ、フィリピン(フィリピン・コモンウェルス、ユサッフェ、フクバラハップ)、オーストラリア、ニュージーランド、英国、メキシコと日本、フィリピン第二共和国(1943年から1945年8月17日まで存在した)の間で、1944年10月から1945年8月まで戦闘が展開され、フィリピン奪回を目指す連合国軍が勝利した。

主な戦力はアメリカ軍が125万人、フィリピン・コモンウェルス(フィリピン連邦軍)が26万0715人、日本軍が52万9802人、フィリピン第二共和国(比島愛国同志会)が約5600人。主な人的損害はアメリカ陸軍が戦死1万6043人、戦傷が5万5531人、戦病が9万3422人以上、海軍が死傷者7270人、フィリピン連邦軍が多数、フィリピン一般市民犠牲者が約100万人、日本軍が戦死・戦病死約43万人と、大東亜戦争で日米とも最大規模の犠牲者が出た戦いとなった。

この間、1944年7月22日に東条英機(とうじょう・ひでき、1884-1948)内閣が倒れ、小磯国昭(こいそ・くにあき、1880-1950)内閣が誕生した。

安島太佳由さんは1959年福岡県生まれ、1981年に大阪芸術大学写真学科を卒業、大日本印刷写真部、広告制作会社などを経て、1993年に「安島写真事務所」を設立、フリーとして活動、1995年「日本の戦争」をテーマに戦跡取材をはじめ、2010年に「若い世代に語り継ぐ戦争の記憶」プロジェクトを開始している。1994年度に文化庁芸術インターンシップ研修員に選ばれている。2002年に第8回平和・協同ジャーナリスト基金賞の奨励賞を受賞している。

開場時間は10時から18時(最終日は15時)。2日は休み。入館時にマスク着用、手指の消毒などが必要。1回あたり25人までしか入れない。

丸善日本橋で美濃桃山陶展、荒川豊蔵、河井寛次郎、金城次郎ら

【銀座新聞ニュース=2020年7月29日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は7月29日から8月4日まで3階ギャラリーで「数寄者の茶陶展」を開く。

丸善・日本橋店で7月29日から8月4日まで開かれる「数寄者の茶陶展」に出品される川喜田半泥子の「刷毛目茶碗 銘 いすず川」(百碗之内)。

「楽焼」などの茶陶作品をはじめ、近・現代を代表する陶芸作家が制作した茶陶の作品、重要無形文化財保持者(人間国宝)の荒川豊蔵(あらかわ・とよぞう、1894-1985)や加藤唐九郎(かとう・とうくろう、1897-1985)らが魅せられ、制作の原点となった「美濃桃山陶(みのももやますえ)」の作品を展示する。

また、荒川豊蔵、加藤唐九郎のほかに出品するのは、1960年に重要無形文化財保持者(人間国宝)の候補となるも辞退した板谷波山(いたや・はざん、1872-1963)、1955年に重要無形文化財保持者に指定されるも辞退した北大路魯山人(きたおおじ・ろさんじん、1883-1959)、加藤唐九郎の長男、岡部嶺男(おかべ・みねお、1919-1990)、元百五銀行頭取で、3人の人間国宝を支援した川喜田半泥子(かわきた・はんでいし、1878-1963)。

1956年に重要無形文化財保持者に認定された金重陶陽(かねしげ・とうよう、1896-1967)、1970年に重要無形文化財保持者に認定された三輪休和(みわ・きゅうわ、1895-1981)、1976年に重要無形文化財保持者に認定された中里無庵(なかざと・むあん、1895-1985)、文化勲章、重要無形文化財保持者、芸術院会員などへの推挙をすべて辞退した河井寛次郎(かわい・かんじろう、1890-1966)。

1961年に重要無形文化財保持者に認定された加藤土師萌(かとう・はじめ、1900-1968)、1986年に重要無形文化財保持者に認定された藤本能道(ふじもと・よしみち、1919-1992)、1989年に重要無形文化財保持者に認定された第13代今泉今右衛門(いまいずみ・いまえもん、1926-2001)、2001年に重要無形文化財保持者に認定された第14代酒井田柿右衛門(さかいだ・かきえもん、1934-2013)。

1955年に第1回重要無形文化財保持者に認定された浜田庄司(はまだ・しょうじ、1894-1978)、1993年に重要無形文化財保持者に認定された松井康成(まつい・こうせい1927-2003)、1995年に重要無形文化財保持者に認定された加藤卓男(かとう・たくお、1917-2005)、1985年に重要無形文化財保持者に認定された清水卯一(しみず・ういち、1926-2004)、、1985年に重要無形文化財保持者に認定された金城次郎(きんじょう・じろう、1912-2004)ら。

可児市(かにし)によると、美濃桃山陶とは安土桃山時代(1568年ころから1616年ころまで)、なかでも、豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし、1537-1598)が政権を握ったころ、志野焼に代表されるような、東濃地方で焼かれた陶器のことで、長い間、愛知県瀬戸市で焼かれたものと考えられ、「黄瀬戸」や「瀬戸黒」と呼ばれた。

中国やヨーロッパから陶磁器が入り、新しい文化との交流に触発され、安土桃山時代に岐阜県の美濃地方(現可児市久々利など)で新しく釉薬(ゆうやく)の掛かった焼き物が誕生し、わずか20年から30年の間しか焼かれなかったが、日本美術の転換期に開花し、当時の人々の美意識に変革をもたらしたとされている。

久々利大萱(くくりおおがや)で桃山時代の志野の窯跡を発見し、その再興に尽くしたのが人間国宝の荒川豊蔵で、そのきっかけとなったのが、名古屋の旧家所蔵の「志野筍茶碗」で、荒川豊蔵はこの茶碗を手にしたとき、底にこびりついた米粒ほどの赤い土に気づき、この赤土が瀬戸にないことから、志野は瀬戸で焼かれたという定説に疑問を持った。

多治見や可児の窯跡を調査し、久々利大萱で筍の絵のある志野の陶片を発見し、この発見は「日本の陶磁史を覆す大発見」といわれた。この発見から3年後の1930(昭和8)年、荒川豊蔵は39歳の時に大萱に窯を開き、以来、志野や瀬戸黒を再興することに半生を捧げた。

大窯は15世紀後半から造られ、地表をある程度掘りくぼめ、傾斜を利用しつつ床面を造り、粘土などで天井や壁を築いた窯跡で、以前の時代により製品を焼く温度が高くなり、釉薬をかけた多くの製品が焼かれた。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。入場は無料。

注:「浜田庄司」の「浜」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使っています。

フード協、外食6月22%減、回復傾向も、洋風FFが減、居酒屋は壊滅的

【銀座新聞ニュース=2020年7月28日】一般社団法人「日本フードサービス協会」(港区浜松町1-29-6、浜松町セントラルビル、03-5403-1060)は7月27日に6月の「外食産業市場動向調査」(全店ベース)を発表した。

ゼネラル・オイスター(中央区日本橋茅場町2-13-13)は8月1日から16日まで「エミットフィッシュバー GINZASIX」(中央区銀座6-10-1、GINZA SIX、03-3575-1540)など19店で「真ガキ食べ放題」を開く。真ガキ、素焼き、カキフライ、ワイン蒸しなど6種類の真ガキ料理が90分食べ放題で昼が3690円、夜が3990円(いずれも税別)。プラス1980円で飲み放題も。2日前までの予約制。18時前と20時以降の予約で300円引き。

6月は、東京アラートの解除、全国的な県外移動自粛の解除に伴い、飲食店の営業時間制限も撤廃されたことから、店内飲食の客足が戻り始め、客数は底打ちの傾向にあるとしている。しかし、郊外や地方立地、食事主体業態で回復の兆しが比較的早く見えてきた一方で、都心部や繁華街立地、飲酒業態などは回復が遅れるなど、業態によって大きな差がみられたという。

このため、6月の外食全体の売り上げは前年比21.9%減と4カ月連続のマイナスで、4月や5月より回復傾向にあるものの、大幅な減少が続いている。特に「居酒屋・パブレストラン」の売り上げは前年の4割に届かず、依然として壊滅的な状況にあるとしている。

全業態で6月の店舗数は同1.4%減、客数が同25.4%減、客単価が同4.7%増だった。

6月の業態別の売上高では、ファーストフード(FF)業態が店内飲食が回復する一方で、4月、5月の売り上げを支えてきたテイクアウト、デリバリー需要の一部が他業態に流れ、売り上げは11.8%減と4カ月連続で下回った上、5月のひと桁台よりも悪化した。

「洋風」は、店内飲食が戻り、キャンペーンなどの奏功で好調なところもあったが、持ち帰りの特需が一服したことで、4月(2.8%増)、5月(10.9%増)の好調を維持できず、3.9%減と3月以来3カ月ぶりにマイナスに転じた。「和風」は、持ち帰り需要の一服で緩やかな回復にとどまり、5月(15.2%減)とほぼ同じ同13.2%減、「麺類」は、商業施設立地店の回復がやや遅く、やはり5月(49.4%減)とほぼ同じ同36.5%減、「持ち帰り米飯・回転寿司」は、回転寿司などで店内飲食の回復が顕著で、持ち帰り需要は一服したものの、6.9%減と5月(10.0%減)よりも改善した。

ファミリーレストラン(FR)業態は同26.5%減と4カ月続けてマイナスだったものの、5月(49.4%減)よりも改善した。他業態と比べれば店内飲食の戻りが早く、引き続きテイクアウトにも力を入れた結果としている。

「洋風」と「和風」は、徐々に客足が戻り、それぞれ32.1%減、31.8%減だった。テイクアウトとデリバリーの強化で比較的堅調だった「中華」は、引き続き回復傾向で、同12.8%減、「焼肉」は自粛解除後のファミリー層などの外食需要の受け皿となり、急速に回復し、同11.3%減だった。

パブ・居酒屋業態は同60.1%減と5カ月続いてマイナスだった。飲酒業態は、多くの店で営業再開を始めたものの、コロナ禍で法人需要が見込めず、個人客についても主力の繁華街立地での戻りが悪い中、一部では集客の見込めない店舗の休業・閉店を予定しており、「パブ・ビアホール」は同65.8%減、「居酒屋」は同58.5%減と、3月の売上急降下以来、壊滅的な状況が続いている。

ディナーレストラン業態も「パブレストラン・居酒屋」と同様に厳しい状況が続いており、一部では高価格帯の弁当が好評で売り上げを下支えしたものの、法人需要や繁華街での集客が見込めない中、同43.0%減となった。

喫茶は同38.0%減と5カ月続けてマイナスだった。多くの店が営業を再開したものの、土日曜日は休業する店舗、ビジネス街立地で集客不振の店舗があったという。

日本フードサービス協会の統計は会員が203事業者数(2020年5月208、4月191、3月203、2月205、1月188、2019年12月191、11月186、10月187、9月189、8月188、7月192、6月193、5月192、4月197、3月196、2月199、1月199、2018年12月197、11月202、10月201、9月199、8月190、7月194、6月200、5月204、4月207、3月200、2月195、1月192)。

店舗数が3万8139店(3万8059店、3万7982店、3万9165店、3万9662店、3万5001店、3万5583店、3万5342店、3万5005店、3万5237店、3万5544店、3万5390店、3万5617店、3万5646店、3万5763店、3万5798店、3万6467店、3万6659店、3万6637店、3万6567店、3万6380店、3万6602店、3万6572店、3万6524店、3万6689店、3万7232店、3万6843店、3万6759店、3万6359店、3万6197店)が対象。

内訳はファーストフードが52社(54社、50社、53社、55社、49社、52社、50社、52社、51社、52社、52社、55社、57社、56社、57社、57社、56社、58社、57社、60社、57社、59社、61社、61社、60社、59社、55社、54社)、2万1806店(2万1703店、2万1821店、2万1552店、2万2261店、1万8957店、1万9369店、1万9273店、1万9217店、1万9118店、1万9275店、1万9131店、1万9326店、1万9370店、1万9461店、1万9444店、1万9913店、2万0219店、1万9954店、1万9990店、1万9844店、2万0086店、2万0001店、2万0024店、2万0163店、2万0603店、2万0023店、2万0571店、1万9689店、1万9768店)。

ファミリーレストランが55社(56社、54社、55社、55社、50社、50社、50社、51社、49社、49社、49社、52社、50社、52社、50社、57社、52社、53社、52社、52社、51社、52社、50社、53社、52社、54社、56社、52社、52社、50社)、1万0638店(1万0753店、1万376店、1万395店、1万534店、9556店、9601店、9667店、9338店、9569店、9646店、9578店、9749店、9667店、9629店、9622店、9838店、9770店、9814店、9847店、9759店、9848店、9778店、9848店、9921店、9911店、9875店、1万0061店、9187店、9946店、9773店)。

パブ・居酒屋が34社(35社、32社、36社、35社、34社、33社、32社、31社、34社、31社、34社、35社、31社、33社、33社、33社、32社、33社、32社、34社、33社、32社、30社、33社、34社、34社、33社、32社、31社)、2305店(2332店、2476店、2849店、2771店、2326店、2254店、2253店、2198店、2401店、2312店、2366店、2335店、2317店、2366店、2395店、2378店、2296店、2388店、2335店、2393店、2381店、2241店、2193店、2271店、2361店、2245店、2467店、2247店、2202店)。

ディナーレストランが28社(32社、26社、28社、29社、26社、27社、26社、25社、26社、25社、26社、23社、25社、26社、25社、25社、26社、25社、26社、26社、26社、23社、23社、24社、25社、26社、26社、26社、27社)、1141店(1182店、1114店、1177店、1071店、983店、1046店、1032店、991店、988店、1006店、911店、991店、997店、1003店、999店、1010店、1007店、1013店、1012店、1010店、959店、999店、1004店、999店、1000店、1002店、978店、1017店)。

喫茶が17社(16社、14社、15社、14社、13社、13社、12社、12社、13社、15社、14社、13社、13社、13社、15社、14社、14社、14社、16社、16社、14社、15社、15社、15社、15社、17社、16社、16社、16社)、2067店(1886店、2004店、2049店、1876店、2042店、2048店、1856店、2020店、2040店、2041店、2037店、2038店、2040店、2033店、2062店、2057店、2063店、2062店、2064店、2054店、2059店、2061店、2097店、2081店、2130店、2239店、2229店、2227店、2164店)。

外食産業(上場企業)の売上高上位4社の6月の既存店売上高は1位のゼンショーホールディングス(すき家、国内店舗数1939店)が同8.7%減と4カ月続けてマイナス、2位のすかいらーく(全グループ、国内外店舗数3261店)が同30.6%減と7カ月続けてマイナス、3位の日本マクドナルド(国内店舗数2910店)が同3.2%減と3カ月ぶりにマイナス、4位のコロワイド(全グループ、国内外2665店)が同28.7%減と4カ月続けてマイナスだった。