日比谷「オズランド」上映会、波瑠、西島秀俊ら挨拶

【銀座新聞ニュース=2018年9月21日】芸能事務所のLDHグループの映画配給会社、LDH pictures(目黒区上目黒1-16-10)傘下のHIGH BROW CINEMA(同)と中堅映画配給会社のファントム・フィルム(渋谷区代々木1-11-2、代々木コミュニティビル、03-6276-4035)は10月4日にTOHOシネマズ日比谷(千代田区有楽町1-1-3、東京ミッドタウン日比谷、050-6868-5068)で「オズランド 笑顔の魔法おしえます。」のプレミア上映会を開く。

10月26日から一般公開される「オズランド 笑顔の魔法おしえます。」((C)小森陽一/集英社(C)2018 映画「オズランド」製作委員会)。

10月26日から一般公開される「オズランド 笑顔の魔法おしえます。」のプレミア上映会を10月4日18時45分から開き、上映前に監督の波多野貴文(はたの・たかふみ)さんをはじめ、主人公でホテルに就職するも地方遊園地に配属される「波平久瑠美」役の波瑠(はる)さん、遊園地の従業員「小塚慶彦」役の西島秀俊(にしじま・ひでとし)さん。

遊園地の従業員「吉村豪太郎」役の岡山天音(おかやま・あまね)さん、遊園地の従業員「上園龍」役の深水元基(ふかみ・もとき)さん、遊園地の従業員「小西俊郎」役の中村倫也(なかむら・ともや)さん、遊園地の従業員「南原カツヨ」役の浜田マリ(はまだ・まり)さん、遊園地の従業員役の柄本明(えもと・あきら)さんが舞台に登場してあいさつする。、

「オズランド 笑顔の魔法おしえます。」は作家の小森陽一(こもり・よういち)さんが2015年11月に集英社文庫から刊行した小説「オズの世界」が原作で、2017年からマンガ「ふしぎの国の波平さん」と題して、マンガ家の畑優以(はた・ゆい)さんによりマンガ週刊誌「ヤングジャンプ」にて連載されている。

物語は波平久瑠美が超一流ホテルチェーンに就職しながら、系列の地方遊園地への配属という不本意な辞令を受け、落胆する彼女を迎える広大な田園風景とそこに遊園地が突如出現するところからはじまる。

遊園地で彼女を待っていたのは、これまでに数々の企画を成功させ、「魔法使い」の異名をとる天才社員・小塚慶彦と個性的過ぎる従業員たちだった。憂鬱な気持ちで遊園地での業務にあたる久瑠美だったが、各支社で目覚しい成果を上げたMVP社員は、好きな部署への異動希望を出せることを知り、MVP社員をめざして仕事に邁進(まいしん)するが。

波多野貴文さんは1973年熊本県山鹿市生まれ、日本大学生産工学部建築工学科を卒業、テレビドラマの演出補として数々の作品に携わった後、2005年にフジテレビ系ドラマ「逃亡者 木島丈一郎」で初演出をつとめ、2010年に「SP ザ・モーション・ピクチャー(THE MOTION PICTURE)野望編/革命編」で映画監督としてデビューした。

2013年にTBS系ドラマ「安堂ロイド-A.I.ノウズ・ラブ(knowsLOVE)?」や2014年にテレビ朝日系ドラマ「ボーダー(BORDER)警視庁捜査一課殺人犯捜査第4係」などのドラマを演出した。

チケットはローソンチケットを通じて販売しているが、プレリクエスト先行についてはすでに締め切っており、25日12時から一般発売する。料金は2000円均一。

注:「浜田マリ」の「浜」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として現代漢字(常用漢字)を使用しています。

丸善日本橋で藤城清治「光のメルヘン」展、サイン会も

【銀座新聞ニュース=2018年9月20日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(東京都中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は9月19日から25日まで3階ギャラリーで藤城清治さんによる版画展「光のメルヘン」を開いている。

丸善・日本橋店で9月25日まで開かれる藤城清治さんの版画展「光のメルヘン」に出品される「美しく光輝く七色の愛」((C)2018Seiji Fujishiro/HoriPro)。

影絵作家で94歳になる藤城清治(ふじしろ・せいじ)さんが2年ぶりに丸善で開く展示会で、サイン会も開く。藤城清治さんは「2年前よりも一人一人が、ハッピーに、そして喜びになって頂ける絵の空間を楽しんで頂ければ幸いです。生きるよろこび太陽の光、月の光、すべての生きる光を皆さまにお届けします」としている。

藤城清治さんは1924年東京府(現東京都)生まれ、1936年に12歳で慶応普通部(小学校)に入学、仙波均平(せんば・きんえい、1885-1977)に水彩画、エッチング、油絵の指導を受け、1944年に海軍予備学生、1945年に20歳で少尉任官、同年終戦後、慶応大学に復学(大学2年)、人形劇、影絵を知り、1947年に慶応義塾大学経済学部を卒業、人形劇と影絵の劇場「ジュヌ・パントル」を結成(後に「木馬座」に変更)した。

1947年に東京興行(現東京テアトル)に入社、宣伝部に勤務、テアトル銀座、銀座全線座のパンフレットを編集、1948年に雑誌「暮しの手帖」で影絵の連載をはじめ(1996年まで)、1950年に初の影絵絵本を出版、1951年に人形音楽劇「雪の女王」を制作、テアトル東京を退職し、フリーとなる。1952年にNHK専属となり、1953年に朝日新聞日曜版紙面に影絵の連載をはじめ、1954年に児童文化誌「絵本木馬」を創刊(14号まで発行)、影絵劇「泣いた赤鬼」で東京都児童演劇コンクール奨励賞、1956年に影絵劇「銀河鉄道の夜」で1956年度国際演劇参加読売児童演劇祭奨励賞、日本ユネスコ協会連盟賞を受賞した。

1961年に木馬座による等身大ぬいぐるみ人形劇を創案、1966年に「木馬座アワー」のキャラクターとして、「ケロヨン」を創作、日本テレビ「木馬座アワー」を自主提供、12月に日本武道館で「第1回ケロヨンショー」を開催、1972年に「木馬座」を解散、影絵・人形劇は「ジュヌ・パントル」として活動を継続、1980年に影絵劇「シャクンタラー姫」で厚生省児童福祉文化奨励賞、1982年に影絵劇「銀河鉄道の夜で」第37回文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。

1983年に絵本「銀河鉄道の夜」でチェコスロバキアのブラチスラヴァ国際絵本原画展金のリンゴ賞、1989年に紫綬褒章、1992年に山梨県に「藤城清治影絵美術館」を開設、1995年に勲4等旭日小綬章、1996年に長野県に「藤城清治影絵美術館」を開設、1998年に北海道遠軽町に「コロボックル影絵美術館」を開設、1999年に日本児童文芸家協会より児童文化特別功労賞、2001年に北九州博覧祭2001でライブ上演、ジャパンエキスポ大賞、2013年6月15日に栃木県に個人美術館「藤城清治美術館」(栃木県那須郡那須町湯本203、0287-74-2581)を開館した。2004年から毎年銀座教文館で個展を開いている。

22日15時から藤城清治さんによるサイン会を開く。当日、会場で版画、書籍などの対象商品を購入すると、先着100人に整理券を配布する。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。

丸善丸の内で豊福まきこ「おどりたいの」原画展

【銀座新聞ニュース=2018年9月20日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ内、03-5288-8881)は9月20日から10月10日まで3階児童書売場壁面ギャラリーで豊福まきこさんによる「おどりたいの」原画展を開いている。

丸善・丸の内本店で10月10日まで開催中の豊福まきこさんの「おどりたいの」原画展に展示されている絵本の表紙。

絵本作家の豊福(とよふく)まきこさんが9月1日に文章と絵を手がけた「おどりたいの」(BL出版、税別1300円)を刊行したのを記念して原画展を開いている。

「おどりたいの」は森のはずれでバレエに出会った、まっ白な子うさぎが踊りたい!と勇気を出して扉をたたくと、先生は優しく迎え入れてくれた。さあ、リズムに乗って1、2、3。その楽しげな様子に、他の子うさぎたちも集まってきた、という物語だ。

豊福まきこさんは東京都生まれ、武蔵野美術大学造形学部を卒業、広告代理店に入社し、グラフィックデザイナーとして勤務し、その後、フリーのイラストレーターとして活動し、新聞、雑誌、バレエ専門誌、児童書籍のさし絵などを手がけ、2017年に「わすれもの」(BL出版)で絵本作家としてデビューした。

9月23日15時から3階児童書売場で豊福まきこさんによるワークショップとサイン会を開く。

開場時間は9時から21時まで。

三重テラス5周年イベント、赤福餅の販売や桜雪が1日店長

【銀座新聞ニュース=2018年9月20日】三重県(三重県津市広明町13、059-224-3070)は9月22日から30日まで三重テラス(中央区日本橋室町2-4、浮世小路千疋屋ビル、03-5542-1035)で「おかげさま祭第1弾」として、2階イベントスペースなどで「三重テラス5周年記念感謝祭」を開く。

9月22日から30日まで三重テラスで開かれる「三重テラス5周年記念感謝祭」に1日店長を務める桜雪さん。

2013年9月28日に首都圏のアンテナショップ「三重テラス」が開業して以来5周年を迎えることから、「赤福餅」の特別販売や「赤福茶屋」の出店、5周年記念のつどい、アイドルの桜雪(さくら・ゆき)さんが1日店長を務める、北海道の名付け親「松浦武四郎(まつうら・たけしろう、1818-1888)」の生誕200年イベント、2016年の伊勢志摩サミット乾杯酒などの特別販売などを実施する。

ウイキペディアによると、三重県は明治維新以前の伊勢国、伊賀国、志摩国の全域と、紀伊国牟婁郡(むろぐん、熊野国)の一部よりなり、大陸と陸続きであった頃、鳥羽市の恐竜化石、伊賀市の大山田地方で発見されたゾウ・ワニの足跡などが知られている。3万年前から1万年前頃の後期旧石器時代の三重県内の南勢地方、鈴鹿川北岸、鈴鹿市南部、英虞湾や伊雑浦(いぞううら)などの河岸段丘や台地での遺跡からナイフ形石器が出土している。

「北海道」と命名した三重県出身の松浦武四郎。その生誕200年イベントも開かれる。

中期から後期前葉にかけて遺跡数がもっとも増加し、約200カ所の所在が確認されている。この期の住居は平面形が円形で、住居内には石囲みや土器敷の屋内炉も確認されている。672年に古代最大の内乱である「壬申の乱」が起こり、この内乱は律令国家形成の主導権を巡る争いであり、三重県域に属する伊勢と伊賀は巻き込まれ、重要な役割を果たした。

7世紀の終わり頃に「班田収授法」が実施され、三重県下でも条里制の遺構が圃場整備(ほじょうせいび)事業が実施されるまで、志摩国の英虞郡(あごぐん)を除いて各郡で確認されている。平安時代末期の源平合戦の時代に平清盛(たいらの・きよもり、1118-1181)らの家系の伊勢平氏の根拠地であった。

平家滅亡後は伊勢神宮領・奈良の寺社領・貴族の荘園に細かく分割された。伊勢平氏の伊勢氏・関氏と源平合戦の恩賞で源氏方の武士が北勢や中勢など伊勢国に移住してきた。南北朝時代に南朝から北畠氏が伊勢国氏に任命されて伊勢国を支配した。戦国時代には伊勢国は北畠氏(中勢地方を支配)、神戸氏(鈴鹿郡が勢力圏)が、志摩国は九鬼水軍の九鬼氏が戦国大名として統治していた。

織田信長(おだ・のぶなが、1534-1582)は1568(永禄11)年に、北伊勢の神戸具盛(かんべ・とももり、不詳-1600)と講和して、3男の織田信孝(おだ・のぶたか、1558-1583)を神戸氏の養子として送り込んだ。北畠家とは大河内城の戦いで、大河内城を大軍を率いて攻略し、次男の織田信雄(おだ・のぶかつ、1558-1630)を養嗣子として送り込んだ。

また、織田信長は願証寺の信者である長島一向一揆との戦いや天正伊賀の乱(織田家の伊賀国侵攻)で織田信長に反抗する伊賀・伊勢の豪族や一向宗を信じる北勢地域の農民を大量殺戮した。その後、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)の伊賀越えで協力した伊賀忍者を徳川氏が登用して江戸時代に活躍する。北勢地域(伊勢国北部)では北勢48家と呼ばれた豪族が統治していたが、織田信長の北伊勢侵攻で北勢48家は滅んだ。

江戸時代には伊勢国には、桑名藩、長島藩、伊勢亀山藩、神戸藩、菰野藩、久居藩、津藩、志摩国の鳥羽藩、津藩の支城の伊賀上野城、津藩の一族の名張陣屋、紀州藩の支城の田丸城、松阪城があった。1868(慶応4)年に「度会府」が設置される(1869年に「度会県」に改称)。1869(明治2)年に版籍奉還により、桑名藩・亀山藩・長島藩・神戸藩・菰野藩・津藩・久居藩・鳥羽藩の8藩が設置された。

1871(明治4)年に廃藩置県により桑名県・亀山県・長島県・神戸県・菰野県・津県・久居県・鳥羽県の8県が設置された。1872年1月に第1次府県統合により安濃津県(桑名県・亀山県・長島県・神戸県・菰野県・津県)と度会県(久居県・鳥羽県・度会県)に統合される。1872年3月に安濃津県は、倒幕の論功行賞に不満を持つ旧津藩士らの住む県南端の安濃津から県中央の三重郡四日市(現四日市市北町2-23、四日市市立中部西小学校)の四日市陣屋に県庁を移設し、郡名を取って三重県へ改称した。
1876(明治9)年4月に第2次府県統合により三重県と度会県が合併して、現在の三重県となった。

1959年に伊勢湾台風が襲来して甚大な被害を被り、1960年に四日市コンビナートが排出した亜硫酸ガスによる大気汚染で、四大公害病の一つとなり、四日市ぜんそくの被害が広がった。1962年に鈴鹿サーキットが開園した。2016年5月26日と27日に志摩市賢島で第42回先進国首脳会議「伊勢志摩サミット」が開かれた。現在人口は181万人、うち四日市市が31万人、県庁所在地の津市が28万人となっている。

松浦武四郎は1818(文化15)年伊勢国一志郡須川村(現三重県松阪市小野江町)で生まれる。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ移住してきたといわれている。13歳から3年間、漢学者・伊勢津藩士の平松楽斎(ひらまつ・らくさい、1792-1852)のもとで学び、猪飼敬所(いかい・けいしょ、1761-1845)、梁川星巌(やながわ・せいがん、1789-1858)らと知己を得る。

山本亡羊(やまもと・ぼうよう、1778-1859)に本草学を学び、16歳から日本国の諸国をめぐった。1838(天保9)年に平戸で僧となり文桂と名乗るも、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に、1844(弘化元)年に還俗して蝦夷地探検に出発し、1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵(にしかわ・しゅんあん、1820-1886)の下僕として同行し、その探査は北海道だけではなく、択捉島や樺太にまで及んだ。

1855(安政2)年に江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢され、再び蝦夷地を踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。1869(明治2)年には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名(当初は「北加伊道」)を命名した。さらにアイヌ語の地名を参考にして国名・郡名を選定し、1870(明治3)年に北海道の開拓の方針を巡って、従五位の官位を返上した。この間に北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺した。
余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったと言われている。武四郎は天神(菅原道真)を篤く信仰し(天神信仰)、全国25の天満宮を巡り、鏡を神社に奉納した。好古家としても知られ、縄文時代から近代までの国内外の古物を収集し、64歳のときに、自分を釈迦に見立て古物コレクションに囲まれた「武四郎涅槃図」を河鍋暁斎(かわなべ・ぎょうさい、1831-1889)に描かせている。

また、1870(明治3)年には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎(とみおか・てっさい、1831-1924)からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。1888(明治21)年に東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去した。

生地の三重県松阪市小野江町には、生家のほか、武四郎の遺した資料を保管する「松浦武四郎記念館」がある(1994年開館)。北海道音威子府村(おといねっぷむら)には「北海道命名之地」の記念碑があり、釧路市の幣舞公園、天塩町の鏡沼海浜公園、小平町のにしん文化歴史公園には銅像(武四郎の身長は4尺8寸=約180センチ、足の大きさは24センチ)がある。北海道勇払郡厚真町富里には松浦式四郎記念碑がある。

22日から24日の3日間、赤福餅2個入(240円、22日と23日のみ)、8個入(760円)、12個入(1100円)を販売する。

22日と23日は赤福茶屋が出店し、赤福餅2個入抹茶付を470円で提供する。

23日10時から12時まで三重県津市出身のアイドルの桜雪さんが1日店長となり、5周年記念プレゼントと写真撮影会を開く。10時から10時45分まで1階で商品を購入すると、先着100人に「松浦武四郎生誕200年記念 招福羊羹(ようかん)」を桜雪さんがプレゼントする。11時から12時まで2階でハイタッチ会(無料)の後、写真撮影会を開く。1枚1000円、サイン付き2000円。

桜雪さんは1992年三重県津市生まれ、東京大学文学部行動文化学科心理学専修課程を卒業、アイドルグループ「仮面女子」のメンバーとして活動し、東京都知事の小池百合子(こいけ・ゆりこ)さんの「希望の塾」1期生として学んだ。

24日14時から15時30分まで「5周年記念のつどい」を開く。三重の応援企業、応援店舗、応援団など三重を応援している人たちの交流を目的に、立食形式で行う。参加者によるPRタイムもある。定員は先着で100人、参加費は2000円(軽食、三重のおみやげ付き)。

25日から28日まで「松浦武四郎生誕200年記念イベント」のパネル展&スタンプラリーを開く。パネル展はパネルや映像を通して、松浦武四郎の生涯や、時代背景における生き様などを紹介する。また、松浦武四郎クイズやアイヌの民族衣装試着体験もある。

19日から10月2日まで北海道どさんこプラザ有楽町店と三重テラスをめぐるスタンプラリーを開いている。両館で買い物して、スタンプを集めると、抽選で10人に3000円相当の特産品(北海道産品詰め合わせ5人、三重県産品詰め合わせ5人)をプレゼントする。

25日から28日、30日の14時から16時まで1階ショップで三重県産品を試食できる「みえを食べる!(大試食会)」を開く。

レストランでは「三重県GAP&AEL食材フェア」などの特別メニューを提供する。また、ショップでは「5周年記念福袋」や伊勢志摩サミットの乾杯酒「作」と「半蔵」、三重テラスオリジナルブレンド茶、 5周年記念特別真珠商品などを特別販売する。

営業時間は10時から20時。

「サメ対人間」作品で「ジョーズ」を超えた「MEG」(247)

【ケイシーの映画冗報=2018年9月20日】地球の最深部といわれるマリアナ海溝の海底(とされている)に到達した人間は現在のところ3人ですが、とうぜん、潜水艇の乗ったままであり、艇外に出たわけでありません。いまでも新種の生き物が発見されている深海は、宇宙以上の未知の世界といえるでしょう。

現在、一般公開中の「MEG ザ・モンスター」((C)2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.,GRAVITY PICTURES FILM PRODUCTION COMPANY,AND APELLES ENTERTAINMENT,INC.)。制作費が1億3000万ドル(約130億円)で、興行収入が9月16日現在で5億529万ドル(約505億2900万円)。

そんな深海に太古の巨大ザメが生き残っていたらというのが本作「MEG ザ・モンスター」(The Meg)です。

沈没した原子力潜水艦の救助活動中、なぞの巨大生物に襲われたレスキュー・ダイバーのジョナス(演じるのはジェイソン・ステイサム=Jason Statham)は、救出できなくなった仲間を見捨てるという経験から世俗を離れ、家族と疎遠になってしまいました。

5年後、海上に置かれたマナ・ワン研究所で、研究者のミンウェイ博士(演じるのはウィンストン・チャオ=Winston Chao)とその娘スーイン(演じるのはリー・ビンビン=Li Bingbing)は、世界最深部であるマリアナ海溝の海底を調査し、未知の空間があることを発見します。

その直後、なぞの生物に襲われた海底調査船が深度1万メートルで行動不能となってしまい、引退したとはいえ、世界最高峰の技量を持つジョナスに声がかかります。

犠牲を払いながら海底調査船を救出したジョナスたちでしたが、事故の原因が5年前の事件を同じだと、ジョナスは確信しました。200万年前に絶滅したはずの巨大なサメ「メガロドン=MEG(メグ)」が現代に存在しているということです。

「すべてのものを喰いつくす」〈メグ〉が中国沿岸の海水浴場をめざしていることを知ったジョナスたちは、「地球で最強の肉食動物」を阻止することができるのか。

スティーブン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督の出世作「ジョーズ」(Jaws、1975年)が世界的ヒットを飛ばした結果、さまざまな生物が人間を襲う「動物パニック」というジャンルが映画界に生まれました。海ではシャチや大ダコ、陸ではワニやクマ、ほかにも巨大グモや殺人バチ、ゴカイ(!?)も人類に襲いましたが、一番人気はやはりサメで、本作のパンフレットでも、「サメ対人間」を題材とした映画のコラムがあるほどです。

「サメ対人間」の映画すべてを鑑賞しているわけではありませんが、スピルバーグ監督の「ジョーズ」は、このジャンルの先駆者であり、また決定版でもあるといえるでしょう。「動物パニック」の多くが「ジョーズ」の影響下にあり、なかには露骨に「ジョーズ」のシーンやストーリーを連想してしまう作品もすくなくありません。

監督のジョン・タートルトーブ(Jon Turteltaub)も、「『ジョーズ』は映画が持つ潜在的な価値観、重要さ、素晴しさをという点における監督としての視点を変えてくれた作品だ」(パンフレットより)と、その影響を素直に認めています。

その一方では、制作にあたっては「今、現存するサメの巨大版にはしたくなかった。(中略)動きに関してもいろいろリサーチして、メガロドンのすべてをVFXで創造したんだよ」(「映画秘宝」2018年9月号)

こうしてクリエイトされた全長23メートル、20トンの〈メグ〉と対決する主人公ジョナスを演じたジェイソン・ステイサムにとって、撮影はハードだったようです。
「僕らは一日中海にいて、とても寒かった」(パンフレットより)

モデルから映画スターとなったステイサムですが、もともとはダイビング競技の経験者なので、泳ぎは達人クラス、肉体も鍛え上げており、スキューバ・ダイビングの経験も豊富ということなので、レスキュー・ダイバーには、ピッタリのキャスティングです。タートルトーブ監督によれば「ジェイソンは映画スターのあらゆる要素を備え」(パンフレットより)ているということです。

そういえば、すこしまえに本項でとりあげた「ランペイジ 巨獣大乱闘」(Rampage、2018年)でも、巨獣と対峙するのは元プロレスラーのドウェイン・ジョンソン(Dwayne Johnson)で、こちらも見事な体躯です。

巨大な生物と鍛えた肉体は相性がよいのでしょうか。「わけあって絶滅しました」(丸山貴史著)によると「メガロドン」が絶滅した理由は地球全体が寒冷化したことと、主食だったクジラ類が大型化してエサが不足してきたこと(異説あり)だそうですが、本作の〈メグ〉は、サメ映画のマスターピース「ジョーズ」を興行成績で呑みこんだそうです。

9月7日時点で全世界興行収入は4億7353万ドル(約474億円)で、「ジョーズ」の4億7065万ドル(1975年の為替は1ドル=約290円なので、これで算定すると約1365億円)を超えたとのこと(各種報道より)。映画界での生存競争に、本作の〈メグ〉はどうやら勝ち残れたようです。次回は「散り椿」の予定です(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:ウイキペディアによると、「マリアナ海溝(Mariana Trench)」は、北西太平洋のマリアナ諸島に位置する、世界でもっとも深い海溝で、最深部は「チャレンジャー海淵」と呼ばれている。深さについてはいくつかの計測結果があるが、最新の計測では水面下1万911メートルとされ、地球上でもっとも深い海底凹地(海淵)である。これは海面を基準にエベレストをひっくり返しても山頂が底につかないほどの深さで、地球の中心からは6366.4キロメートル地点にある。

マリアナ海溝の測深は、英国のチャレンジャー号探検航海 (1872年から1876年) の海洋調査によって初めて行われた。1875年、このときの測鉛線による測深記録は、8184メートルであった。当時の最深を記録したこの地点は、現在のチャレンジャー海淵であった。

日本によるマリアナ海溝の調査は、20世紀に入って行われ、1925年、日本の測量船「満州号」が重りのついたケーブルをおろして測定する方法(鋼索測深)により水深9814メートルを記録した。

英国海軍の測量船「チャレンジャー8世号」が1951年に測定に成功した最深部分はその名にちなんで「チャレンジャー海淵」と呼ばれ、このとき、チャレンジャーは反響した音波を測定する方法(音響測深)で北緯11度19分、東経142度15分において水深1万0900メートルを記録した。その後、手動計測による誤差を除去したことにより、現在ではより厳密な1万0863メートルという値に修正されている。

1960年1月23日、アメリカ海軍の協力のもとに開発された潜水艇「トリエステ号」がマリアナ海溝深部をめざし、到達した深度については諸説あり、確証が得られていない。スイスの海洋学者、ジャック・ピカール(Jacques Piccard、1922-2008)とアメリカ海軍の中尉だったドナルド・ウォルシュ(Donald Walsh)さんの2人は海溝の底に到達したといい、その時バチスカーフ内部の水深計が示していたのは3万7800フィート (1万1521メートル、後に3万5800フィート=1万0912メートルと修正)だったと主張している。

1962年には調査船スペンサー・ベアード号が水深1万0915メートルを記録した。1984年に日本の調査船「拓洋」が最新式のナローマルチビーム測深機を用いて測定を行い、1万0924メートル(厳密には1万0920メートル±10メートル)という値を得た。1995年5月に日本の無人探査機「かいこう」が水深1万0911メートルを記録した。

2009年5月、アメリカのウッズホール海洋研究所の無人探査機「ネーレウス」が1万0902メートルに到達した。「ネーレウス」は10時間以上チャレンジャー海淵の海底に留まり、深度1万0902メートルを測定していた。

2012年3月26日(チャモロ標準時)、映画監督のジェームズ・キャメロン(James Francis Cameron)は一人乗りの潜水艇「ディープシーチャレンジャー」(全長7メートル、重量約12トン)に搭乗し、約2時間をかけて深さ1万0898メートルへの潜行に成功した。有人でのチャレンジャー海淵への潜行は「トリエステ」以来52年ぶりで、単独での潜行は初となる。

3月26日5時15分頃に降下を開始し、7時52分にチャレンジャー海淵の海底に到達し、降下時間の2時間36分で記録された水深はチャレンジャー海淵に着地した時の1万0898.4メートルだった。キャメロンはおよそ6時間近くを海底付近の調査に費やす予定だったが、わずか2時間34分後に海面への浮上を開始した。海底での滞在を切り上げた理由はマニピュレータアームを制御する油圧配管から油が漏出したことで観測窓からの視界が遮られたからとされている。

12時ころにディープシーチャレンジャーのウェブサイトは90分かけて海面に浮上したと伝え、マイクロソフト社共同創業者だったポール・アレン(Paul Gardner Allen)のツイートによると、浮上までの所要時間はおよそ67分だったとされる。