講談協会が日本橋亭で元旦から初席、貞水、琴桜、貞花、貞心ら

【銀座新聞ニュース=2018年12月28日】講談協会(事務局・03-6313-7438)は2019年1月1日から5日まで「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル、03-3245-1278)で「講談協会初席」を開く。

講談協会が2019年1月1日から5日まで「お江戸日本橋亭」で開く「講談協会初席」に出演する一龍斎貞心さん。

講談協会が毎年恒例としている「お江戸日本橋亭」で12時50分から開く初席で、会員の講談師が総出で出演する。

1月1日は前座に続いて、二ツ目の宝井梅湯(たからい・うめゆ)さん、真打の神田(かんだ)あおいさん、真打の神田春陽(かんだ・しゅんよう)さん、真打の一龍斎貞山(いちりゅうさい・ていざん)さん。

仲入り後、真打の神田織音(かんだ・おりね)さん、真打の一龍斎春水(いちりゅうさい・はるみ)さん、トリが真打で講談協会常任理事の宝井琴梅(たからい・きんばい)さん。

2日は前座に続いて、二ツ目の神田(かんだ)すずさん、真打の宝井琴嶺(たからい・きんれい)さん、真打の田辺凌鶴(たなべ・りょうかく)さん、真打の宝井琴柳(たからい・きんりゅう)さん。

同じく出演する神田織音さん。

仲入り後、真打の一龍斎貞友(いちりゅうさい・ていゆう)さん、真打の田辺鶴瑛(たなべ・かくえい)さん、トリが真打で、講談協会理事兼会長の一龍斎貞水(いちりゅうさい・ていすい)さん。

3日は前座に続いて、二ツ目の一龍斎貞鏡(いちりゅうさい・ていきょう)さん、、二ツ目の宝井琴柑(たからい・きんかん)さん、真打の田辺鶴遊(たなべ・かくゆう)さん、真打の宝井琴星(たからい・きんせい)さん。

仲入り後、真打の田辺一邑(たなべ・いちゆう)さん、真打の神田(かんだ)すみれさん、トリは真打で、講談協会理事、日本演芸家連合理事長、社団法人日本芸能実演家団体協議会常任理事の一龍斎貞花(いちりゅうさい・ていか)さん。

4日は前座に続いて、二ツ目の一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん、二ツ目の田辺一乃(たなべ・かずの)さん、真打の一龍斎貞橘(いちりゅうさい・ていきつ)さん、真打で、講談協会理事兼事務局補佐の宝井琴調(たからい・きんちょう)さん。

同じく出演する田辺一邑さん。

仲入り後、真打の宝井一凜(たからい・いちりん)さん、真打の神田香織(かんだ・かおり)さん、トリは真打で講談協会理事兼副会長の宝井琴桜(たからい・きんおう)さん。

楽日の5日は前座に続いて、二ツ目の神田(かんだ)こなぎさん、二ツ目の宝井琴柑(たからい・きんかん)さん、二ツ目の田辺銀冶(たなべ・ぎんや)さん、真打の神田山緑(かんだ・さんりょく)さん、真打の一龍斎貞寿(いちりゅうさい・ていじゅ)さん、真打の桃川鶴丸(ももかわ・つるまる)さん。

仲入り後、真打の宝井梅福(たからい・うめふく)さん、真打の田辺南北(たなべ・なんぼく)さん、大トリは真打で講談協会理事の一龍斎貞心(いちりゅうさい・ていしん)さん。

ウイキペディアなどによると、講談は奈良、平安の頃に原型が見られ、その後、江戸時代の大道芸のひとつとして「辻講釈(つじこうしゃく、または町講釈)」が誕生し、太平記などの軍記物を注釈を加えつつ調子を付けて語り、1704年から1710年までの宝永(ほうえい)年間には公許の常設小屋で上演され、「講釈」と呼ばれた。

1818年から1830年の文政(ぶんせい)年間には話芸としてほぼ確立し、いくつかの流派が誕生し、講釈での人気演目が歌舞伎や人形浄瑠璃で上演されることもあった。明治時代に入って、講釈は「講談」と呼ばれるようになった。

江戸末期から明治時代にかけて、講談は全盛期を迎え、明治末期には「立川文庫」など講談の内容を載せた「講談本」が人気を呼び、新聞や雑誌に講談が連載されるようになった。しかし、漫才など他の人気大衆芸能の誕生、大衆メディアの発達などに追いつけず、次第に衰退した。

大東亜戦争後はGHQにより、仇討ちや忠孝ものの上演が禁止され、一時は大きな影響を受け、さらに、テレビの普及により、衰退を続けた。現在は講談師の所属団体として「講談協会」と「日本講談協会」があり、落語界と比較して女性の進出がめざましく、講談協会、日本講談協会とも男性より女性の協会員のほうが多い。

落語は会話によって成り立つ芸なのに対し、講談は「話を読む芸」で、独特のしゃべり調子と張り扇で釈台(机)をたたいて展開されるのが特徴となっている。

講談界では「講談組合」が1881年に設立され、1968年に「講談協会」が設立されたが、田辺夕鶴(たなべ・ゆうづる、後に「天の夕づる」に改名し、その後廃業、1944年東京都生まれ)のポルノ講談により、講談界が割れ、1973年に分裂した。

神田ろ山(かんだ・ろざん、1908-1984)、小金井芦州(こがねい・ろしゅう、1926-2003)、神田伯治(かんだ・はくじ、後に6代目神田伯龍、1926-2006)、一龍斎貞水(いちりゅうさい・ていすい)さん、宝井琴鶴(たからい・きんかく、後に5代目宝井馬琴、1903-1985)ら協会解散派の「講談組合」と、神田山陽(かんだ・さんよう、1909-2000)や田辺一鶴(たなべ・いっかく、1929-2009)ら解散反対派の「日本講談協会」が誕生した。

1974年に宝井馬琴門下の宝井琴鶴(たからい・きんかく、現6代目宝井馬琴)さん、宝井琴梅(たからい・きんばい)さん、宝井琴桜(たからい・きんおう)さん、一龍斎貞正(いちりゅうさい・ていせい、現一龍斎貞花)さんが「講談組合」を脱会して宝井馬琴一門と一龍斎貞丈(いちりゅうさい・ていじょう、1928-2003)一門として「東京講談会」を設立した。

1980年7月に「講談協会」として統一され、1991年10月に選挙方法に異議を唱えた神田山陽一門が「日本講談協会」を設立し、神田山陽門下の神田松鯉さん、神田紫さん、神田紅さんらが日本講談協会を率いている。

時間は12時50分から16時ころまで。入場料は2000円。講談協会の後援会「ご贔屓連」(年会費3000円)は1000円。2日と3日の午前中に催される「初春演芸会」(2000円)を鑑賞すると、「講談協会初席」は1000円になる。

日本橋三越で台東区合唱団と朝倉麻里亜、河野大樹ら「第九」

【銀座新聞ニュース=2018年12月27日】国内最大手の百貨店グループ、三越伊勢丹ホールディングス(新宿区新宿5-16-10)傘下の三越伊勢丹(新宿区新宿3-14-1)が運営する日本橋三越(中央区日本橋室町1-4-1、03-3241-3311)は12月29日に本館1階中央ホールで台東区民合唱団による「第34回三越の第九」を開く。

日本橋三越で12月29日に開かれる台東区民合唱団による「第34回三越の第九」。画像は過去の会場風景。

台東区民合唱団約200人が東京芸術大学指揮科准教授の酒井敦(さかい・あつし)さんの指揮と、ピアノ奏者で、東京芸術大学講師の山口佳代(やまぐち・かよ)さん、東京芸術大学音楽学部作曲科の山中麻鈴(やまなか・まりん)さんの演奏に合わせて、ベートベンの「交響曲第九番」の第4楽章を歌唱する。

歌い手は毎年変えており、2018年は、2015年に東京芸術大学声楽科卒業、3年次に安宅賞、卒業時にアカンサス音楽賞、同声会賞を受賞、同大学大学院音楽研究科修士課程独唱専攻を修了した、ソプラノの吉沢淳(よしざわ・まこと)さん、東京都生まれ、東京音楽大学ピアノ専攻卒業、東京芸術大学音楽学部声楽科卒業、卒業時に同声会賞受賞、同大学大学院在籍のアルトの朝倉麻里亜(あさくら・まりあ)さん。

慶応大学経済学部卒業のテノールの河野大樹(こうの・ひろき)さん、香川県生まれ、東京芸術大学音楽学部声楽科卒業、卒業時にアカンサス音楽賞、同声会賞を受賞、同大学別科声楽専修を修了したバスの田中夕也(たなか・ゆうや)さんが出演する。

台東区民合唱団の指揮者は2013年まで松浦(まつうら)ゆかりさんが務めていたが、2014年9月から「交響曲第九番」の合唱指揮者に、東京芸術大学指揮科助教、東京芸術大学シンフォニーオーケストラアドミニストレーターの酒井敦さんが就任した。松浦ゆかりさんは台東区民合唱団のスーパー・アドバイザーを務めている。

「交響曲第九番」はドイツの音楽家、ベートーベン(Ludwig van Beethoven、1770-1827)の9番目にして最後の交響曲で(第10番は未完成)、1824年に初稿が完成した。交響曲とはソナタの形式で書かれた器楽のための楽曲で、第1楽章がソナタ、第2楽章がスケルツォ、第3楽章が緩徐楽章、第4楽章に4人の独唱と混声合唱を導入した。

第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはドイツの詩人、シラー(Johann C. F.von Schiller、1759-1805)の詩「歓喜に寄す」が3分の1程度を抜粋して使われている。

台東区民合唱団は1981年5月に「台東第九を歌う会」として発足し、同年12月23日に第1回台東第九公演「下町で第九」を浅草公会堂で歌い、以来、毎年12月の恒例公演として続けられている。1985年12月から「三越の第九」がスタートし、毎年、日本橋三越本店で約200人が参加して、「第九」の第4楽章を歌唱する。

開演時間は12時30分と14時30分。入場無料で観覧は自由。着席券は当日9時30分より、本館地下1階「地下中央口」で80席×2回分(入替制)を先着順で配布する。

注:「吉沢淳」の「沢」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として現代漢字(常用漢字)を使用しています。

フード協、11月外食1%増、27カ月連続、客足堅調で

【銀座新聞ニュース=2018年12月27日】一般社団法人「日本フードサービス協会」(港区浜松町町セントラルビル、03-54031-29-6、浜松-1060)はこのほど、11月の「外食産業市場動向調査」(全店ベース)で全業態で売上高が前年同月比1.1%増だったと発表した。

ゼネラル・オイスターが12月26日から2019年1月6日まで「エミットフィッシュバー GINZASIX」や「オイスターテーブル 銀座コリドー店」など26店で「賀春プレート」を提供している。生ガキ、イクラ、ウニ、ホタテ、エビ、ローストビーフなどをひと皿にのせたプレート(税別3980円)で、スパークリングワイン1本をつけると5980円。

11月は、土曜日が1日少ない曜日回りだったが、暖かい日が多かったことや、週末の天候に恵まれたことなどから客足が堅調だったことから、客数は同0.7%増と推移したこともあって、売上高は27カ月連続して前年を上回った(既存店ベースは未公表)。

業態別では、ファーストフード(FF)が同1.6%増で2015年12月から35カ月連続プラス、ファミリーレストラン(FR)が同0.4%減と4カ月ぶりにマイナス、パブ・居酒屋が同2.8%増と2カ月続けてプラスとなり、ディナーレストランが同1.2%増と2016年9月から27カ月連続して前年を上回り、喫茶が同0.5%増と2カ月続けてプラスだった。

また、11月の店舗数は同0.2%増、客単価が同0.4%増だった。

日本フードサービス協会の統計は会員が202事業者数(10月201、9月199、8月190、7月194、6月200、5月204、4月207、3月200、2月195、1月192)、店舗数が3万6567店(10月3万6380店、3万6602店、3万6572店、3万6524店、3万6689店、3万7232店、3万6843店、3万6759店、3万6359店、3万6197店)が対象。

内訳はファーストフードが58社(57社、60社、57社、59社、61社、61社、60社、59社、55社、54社)、1万9990店(1万9844店、2万0086店、2万0001店、2万0024店、2万0163店、2万0603店、2万0023店、2万0571店、1万9689店、1万9768店)。

ファミリーレストランが52社(51社、52社、50社、53社、52社、54社、56社、52社、52社、50社)、9847店(9759店、9848店、9778店、9848店、9921店、9911店、9875店、1万0061店、9187店、9946店、9773店)、パブ・居酒屋が32社(34社、33社、32社、30社、33社、34社、34社、33社、32社、31社)、2335店(2393店、2381店、2241店、2193店、2271店、2361店、2245店、2467店、2247店、2202店)。

ディナーレストランが26社(26社、26社、23社、23社、24社、25社、26社、26社、26社、27社)、1013店(1012店、1010店、959店、999店、1004店、999店、1000店、1002店、978店、1017店)、喫茶が16社(16社、14社、15社、15社、15社、15社、17社、16社、16社、16社)、2064店(2054店、2059店、2061店、2097店、2081店、2130店、2239店、2229店、2227店、2164店)。

外食産業(上場企業)の売上高上位3社の11月の既存店売上高は1位のゼンショーホールディングス(すき家、国内店舗数1933店)が同5.0%増と6カ月続けてプラス、2位のすかいらーく(全グループ、3203店)が同0.7%増と4カ月続けてプラス、3位のコロワイド(全グループ、国内の直営1405店、FC店1125店)が同3.0%減と3カ月続けてマイナスだった。

差別を体験した女性監督が暴動事件を経て描いた「サンシャイン」(253)

【ケイシーの映画冗報=2018年12月27日】1992年の4月末から5月の初旬にかけてアメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルスで大規模な暴動が発生しました。黒人への人種差別や陪審員制度による量刑判断の問題から、市内全土が騒乱に包まれ、ロサンゼルス市長は「非常事態宣言」を出し、国内の治安を維持する州軍だけでなく、アメリカ陸軍や海兵隊が投入されるといった、内戦状態にまで状況は悪化し、死者は50人以上、逮捕者は1万人を越える大事件となっています。

現在、一般公開中の「マイ・サンシャイン」((C)2017 CC CINEMA INTERNATIONAL–SCOPE PICTURES–FRANCE 2 CINEMA-AD VITAM-SUFFRAGETTES)。アメリカでは4月に公開されたが、興行収入は約83万ドル(約8300万円)にとどまっている。

本作「マイ・サンシャイン」(Kings、2017年)はこの事件を、当事者の目線で描いた作品です。黒人女性ミリー(演じるのはハル・ベリー=Halle Berry) は、ロサンゼルス市街のサウスセントラルで、身寄りのない子どもを何人も引き取って育てていました。

ミリーの隣家に住むオビー(演じるのはダニエル・クレイグ=Daniel Craig)は白人男性でありながら黒人地区にひとりで暮らす変わり者で、ミリーの家で遊ぶ子どもたちに怒鳴り散らすようなエキセントリックな人物です。

そのサウスセントラルが不穏な空気に包まれていきます。万引きを働いた黒人の少女を韓国系の店員が射殺してしまったことで、黒人たちが韓国系の住民を敵視するようになったのです。

それに黒人男性ロドニー・キング(Rodney King、1965-2012)が白人警官に「リンチのような」集団暴行を受けたことがテレビで大きく取り上げられるようになると、サウスセントラルの黒人たちは一気にヒート・アップします。そして、黒人少女を射殺した女性が罰金刑でおわり、キングを暴行した警官たちも事実上の「おとがめなし」となったとき、黒人たちの不満は沸点に達したのでした。

ミリーの自宅周辺も騒がしくなります。姿が見えなくなった子どもを探していたミリーも、黒人というだけで警官に手錠をかけられり、銃口を向けられたりします。手錠のまま逃げたミリーを助けたのは、言い争いばかりだった隣人のオビーでした。いたるところで銃声がひびき、略奪と放火が横行する夜の街を、ミリーとオビーは子どもたちを探すための危険なドライブに出かけるのです。

本稿では、今年の2月にも、アメリカの黒人に対する人種差別が原因となった「デトロイト暴動」(1967年7月)をあつかった「デトロイト」(Detroit、2017年)をとりあげています。

アメリカで実際に起きた騒乱を映画化したというだけででなく、「デトロイト」と「マイ・サンシャイン」には女性監督という共通点があります。「デトロイト」を監督したキャスリン・ビグロー(Kathryn Bigelow)は、2009年に「ハート・ロッカー」(The Hurt Locker)で女性としてはじめてアカデミー監督賞を受けた人物です。

映画人としてのキャリアが30年以上あり、アカデミー賞受賞者であるビグローとくらべると、本作の監督・脚本はこれが長編2作目というデニズ・ガムゼ・エルギュヴェン(Deniz Gamze Erguven)は、映画界のニュー・フェイスといえるでしょう。

ビグロー監督が「デトロイト」の着想を得たのは、2014年に白人警官が武器を持たない黒人青年を射殺しながら不起訴となった事件だったのですが、エルギュヴェン監督も2005年に起きた「パリ郊外暴動事件」が、本作のアイディアの源泉だったそうです。

北アフリカ出身の若者が警官に追われて逃げ込んだ変電所で感電し、2名死亡、1名重症という事件で、ロドニー・キングへの暴行事件とおなじように、警察=政府への不信感からフランス全土に暴動が広がりました。

「この事件の最中に私自身も尋問を受けました。(中略)国籍申請は2度却下され、パスポートを申請する度に通るか不安になります」(パンフレットより)と語るエルギュヴェン監督は、トルコで生まれ、生後半年でフランスに渡りながら、「フランス人として受け入れてもらえない」という感情を抱いていたそうです。

ビグロー監督は2014年の事件を知り、「アメリカは50年前とかわらない」と実感したそうですが、自身が事件に巻き込まれたエルギュヴェン監督にとってはもっと切実な想いがあったのではないでしょうか。

移民の国アメリカでも、移民受け入れについてネガティブな発言が目立つようになりました。英国は経済的にアラブ系の影響力は無視できません。ドイツにはトルコ系移民が労働力として数十年間、インフラを支えています。パリのエッフェル塔付近には「黒人とアラブ系しかいなかった」という話も最近、聞きました。

鑑賞後、「国家とは何か?国民とは何か?同じ人間なのになぜ蔑視するのか?」、いずれも解決は困難ですが、現在進行形の問題であることを再認識させてくれました。次回は「シュガー・ラッシュ:オンライン」の予定です(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:ウイキペディアによると、1992年4月末から5月初旬にかけて起こった「ロサンゼルス暴動」はその1年前の1991年3月3日、アフリカ系男性ロドニー・キングがレイクビューテラス付近でスピード違反を犯し、LA市警によって逮捕された。

その際、20人にものぼる白人警察官が彼を車から引きずり出して、装備のトンファーバトンやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラでこの様子を撮影しており、この映像が全米で報道されアフリカ系民族の怒りを膨らませた。

この事件でビデオに映り身元が分かる白人警官3人とヒスパニック系警官1人の計4人が起訴されたが、裁判の結果、警官達の「キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかった」との主張が全面的に認められ(実際はおとなしく両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打され、医療記録によるとあごを砕かれ、足を骨折、片方の眼球は潰されていたとされるが、裁判では認められなかった)、事件発生から1年経過した1992年4月29日に陪審員は無罪評決を下した。

ロドニー・キング事件のわずか13日後となる1991年3月16日、持参したバックパックに1ドル79セントのオレンジジュースを入れ、手に支払いのための小銭を握っていたアフリカ系少女(当時15歳)であるラターシャ・ハーリンズ(Latasha Harlins、1975-1991)を韓国系アメリカ人の女性店主が射殺した。

事件の様子は防犯ビデオに収められており、2人は揉み合いになったのちに少女が店主の顔面を4度殴打、店主は床面に激しく転倒させられた。店主は少女に椅子を投げつけ、その後、オレンジジュースをカウンターに置いて店から歩いて出て行こうとする少女に対して、韓国人店主は背後から銃を向け、その頭部を撃ち抜いた。

女性店主は逮捕され、事件の判決は同年11月15日に出された。陪審員は16年の懲役を要求していたにもかかわらず、判決は5年間の保護観察処分、およびボランティア活動400時間、罰金500ドルという殺人罪としては異例に軽いものであった。この判決はアフリカ系社会の怒りを再び煽ることとなり、無実のアフリカ系少女を射殺するというこの事件により、アフリカ系社会と韓国人社会間の軋轢は頂点に達した。

1992年4月29日、LA市警の警官への無罪評決が下されたこの日、評決に怒ったアフリカ系たちが暴徒と化し、ロサンゼルス市街で暴動を起こして商店を襲い、放火や略奪をはじめた。また、小規模な暴動及び抗議の動きはロサンゼルスだけではなくラスベガス、アトランタ、サンフランシスコをはじめとしたアメリカ各地、およびカナダの一部にまで波及したようである。

主な襲撃目標となったLA市警は自らを守るだけで手一杯の状況となり、暴動を取り締まることはまったくできなくなっていた。この時、LA市警は現場にアフリカ系警官のみを行かせるよう編成をしており、現場近くにいた白人制服警官には「現場に近づくな」との命令がディスパッチャー(通信司令)を通して発せられていた。4月30日、当時の市長は非常事態宣言を発令した。

もうひとつの主たる襲撃目標が韓国人商店で、襲撃による被害額の半分弱が韓国人商店のものであるともされる。韓国人店主らの多くはベトナム戦争の帰還兵で、ベトナム戦争に参加した韓国人帰還兵にアメリカ政府が移住許可を与えたため、1970年代に韓国系移民が4倍も増えた。

彼らは主に競合相手のいないアフリカ系街で商売を始め、従業員にはヒスパニック系を雇い、閉店すると店を厳重にガードし、韓国人街へ帰るというスタイルで商売していた。アフリカ系の間では「自分達を差別しながら商売する連中」というイメージが定着し、そうしたアフリカ系による日頃からの韓国系への鬱憤が、暴動時の韓国人商店襲撃へと結びついたといわれている。

暴動鎮圧のために州兵は元より、4000人を超える連邦軍(陸軍、および海兵隊)部隊までが投入され、さらには司法省が、ロドニー・キング事件について、公民権法違反容疑でのFBIによる再捜査をアナウンスするなどの努力によって、6日間にわたった暴動はようやく収束を見た。

暴動による被害は死者53人、負傷者約2000人を出し、放火件数は3600件、崩壊した建物は1100件にも達した。被害総額は8億ドル(約800億円)とも10億ドル(約1000億円)ともいわれる。韓国人街は市警が暴動鎮圧に消極的だったと厳しく非難した。また彼らは「無実の我々が犠牲を強いられた責任は市当局にある」と述べた。この事件での逮捕者は約1万人にものぼり、そのうち42%がアフリカ系、44%がヒスパニック系、9%の白人と2%のその他の人種が含まれていた。

FBIが公民権法違反で再捜査を行い、再審理の結果、指揮を執る立場にあった巡査部長と直接関与した巡査の2人が有罪評決を受けた。LA郡の連邦地裁陪審団は同市に対しキングに約382万ドル(当時のレートで約3億9700万円)の賠償金を支払うよう評決を下した。

 

広島TAUでサンフレッチェの森崎ツインズがトーク

【銀座新聞ニュース=2018年12月26日】広島県(広島市中区基町10-52、082-228-2111)が運営するアンテナショップ「TAU」(中央区銀座1-6-10、銀座上一ビルディング、03-5579-9952)は2019年1月14日17時30分から3階イベントスペースで森崎和幸さんと森崎浩司さんによる「森崎ツインズpresentsサンフレッチェ広島 ニューイヤートーク in TAU」を開く。

「たう(TAU)」で2019年1月14日に開かれる森崎和幸さんと森崎浩司さんによる「森崎ツインズプレゼンツ(presents)サンフレッチェ広島ニューイヤートーク イン・たう(in TAU)」に出演する兄の森崎和幸さん。

20年間のプロ生活、 ユース時代を含めると22年間、 広島一筋で、サンフレッチェ広島の選手として戦い、2018年シーズンで現役を引退した森崎和幸(もりさき・かずゆき)さんと、 2016年シーズンでサンフレッチェ広島を引退し、サンフレッチェ広島の初代アンバサダーとして活躍している森崎浩司(もりさき・こうじ)さんの「森崎」兄弟が、 これまでのサッカー人生、今だから話せるチーム内の裏話、自らの兄弟のことなどについて語る。司会、進行役はスポーツコメンテーターの西岡明彦(にしおか・あきひこ)さんが務める。

森崎和幸さんは1981年広島県広島市生まれ、矢野中学、サンフレッチェ広島F.Cユース(県立吉田高校卒業)を経て、2000年にサンフレッチェ広島に入団し、以降、 広島一筋でプレーし、3度のJ1優勝に貢献し、2018シーズン限りで20年間のプロ生活に終止符を打ち、現役を引退した。森崎和幸さんは双子の兄になる。

同じく弟の森崎浩司さん。

森崎浩司さんは1981年広島県広島市生まれ、矢野中学、サンフレッチェ広島F.Cユース(県立吉田高校卒業)を経て、2000年にサンフレッチェ広島に入団し、以降、 広島一筋でプレーし、3度のJ1優勝に貢献した。また、2004年のアテネオリンピック代表に選ばれている。2016シーズン限りで18年間のプロ生活に終止符を打ち、現役を引退し、2017年1月にサンフレッチェ広島の初代アンバサダーに就任している。森崎浩司さんは双子の弟にあたる。

サンフレッチェ広島は1992年のJリーグ発足時から加盟している「オリジナル10」のチームのひとつで、前身は1938年に創部された自動車メーカーのマツダ(旧東洋工業)の東洋工業蹴球部だが、1992年4月24日に広島県、広島市、マツダ、ダイイチ(後のデオデオで現エディオン)、中国電力、広島銀行など59団体が出資して設立された。

2002年に初めてJ2落ちし、2003年に1年でJ1昇格を決め、2007年に2度目のJ2落ちとなり、2008年に1年間でJ1に復帰した。2012年にOBの森保一(もりやす・はじめ)さんが監督に就任し、年間初優勝を決め、2013年に2連覇した。2015年にJリーグチャンピオンシップ決勝でガンバ大阪を破って優勝した。しかし、2016年シーズンでは年間で6位、2017年シーズンでも開幕から出遅れ、降格圏に沈んだこともあり、7月に森保一さんが退任し、ホーム最終戦で残留を確定し、15位で終えた。2018年は2位でシーズンを終えた。

時間は17時30分から19時で、定員は50人。参加費は無料だが、たう(TAU)ポイントカード会員が対象。希望者はHP(http://www.tau-hiroshima.jp/)から申し込む。27日12時締め切り。応募多数の場合は抽選。