ホワイトストーン画廊で婁正綱「宋元画」展

【銀座新聞ニュース=2020年5月21日】ホワイトストーンギャラリー銀座本館(中央区銀座6-4-16、03-3574-6161)は5月23日から6月21日まで「若き巨匠・婁正綱の世界展-コンテンポラリーアートとして華開く宋元画」を開く。

ホワイトストーンギャラリー銀座本館で5月23日から6月21日まで開かれる「若き巨匠・婁正綱の世界展-コンテンポラリーアートとして華開く宋元画」に出展される作品「無題」(2019年、(C) LZG studio)。

中国出身の女流画家で、「宋元画」を描く婁正綱(ろう・せいこう)さんが新作を中心に作品を展示する。

ホワイトストーンギャラリーによると、「宋元画」とは、中国5000年の絵画史において、北宋、南宋、元代に発展した絵画をいう。1000年ほど前に、ヨーロッパ絵画が神中心の世界を描いていた時代に、中国の画家は大自然を、独特の空間表現で描いた。

ヨーロッパにおいて自然は神の被造物であるのに対し、宋元画において自然は人間がその中で生かされている宇宙であった。明治時代、岡倉天心(おかくら・てんしん、1863-1913)はその師フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853-1908)と共に、宋元画を世界最高水準の絵画と位置づけ、日本ばかりでなく世界に向けてその秀逸さを喧伝したという。

ウイキペディアによると、趙匡胤(ちょう・きょういん、927-976)が「五代十国時代」(907年から960年)の五代最後の後周から禅譲を受けて建国したのが宋(960年から1279年)で、女真族の金(1115年から1234年)に華北を奪われ、南遷した1127年以前を「北宋」、以後を「南宋」と呼び分けている。

その後、中国本土とモンゴル高原を中心領域とした元(1271年から1368年)が唐崩壊(907年)以来の中国統一王朝となった。しかし、明(1368年から1644年)に追われて、1368年に大都(現北京)からモンゴル高原に撤退し「北元」になった。「北元」の遊牧諸部族を同時代の漢文史料では韃靼(だったん)と呼び、日本では韃靼のカタカナ表記であるタタールという名称を用いた。清(1616年から1912年)ではモンゴルの音訳である「蒙古」の呼称を復活させている。

明代末期に活躍した文人の董其昌(とう・きしょう、1555-1636)は唐時代以来の山水画の歴史を、北宗画(職業画家系)と南宗画(文人画系)という2つの流れに分類したうえで、南宗画すなわち文人画が優れたものであり、北宗画すなわち職業画家の山水画は学ぶ価値のないものだとした。

これにより、文人画を優位に置き、古画の学習を重んじる風潮は次の清時代にも続いた。一方で、清時代にはそうした粉本主義に反発し、独自の個性的な画風を追求した画家たちも多数存在したという。

婁正綱さんは中国生まれ、幼い頃から父親に書画を学び、1970年代から1980年代に中国・北京の書画界で活躍し、1986年に来日し、東京で制作し、アジア、中東、アメリカ、スイス、フランスなどで個展やアートツアーを開き、国際芸術の舞台で中国文化を伝える。

現在は伊豆にアトリエを構え、生命と愛、日月同輝、心、和合、生生、自然などのシリーズ作品を制作し、水墨を媒介に、宇宙を想像空間とし、現代的、個性的な抽象画を描き、中国伝統絵画と現代芸術を結合しようとしている。

開場時間は11時から19時まで。入場は無料。ただ、現在は入場を制限しており、希望者は電話で事前に予約する必要がある。日・月曜日は休み。

丸善日本橋が再開、九州銘木「屋久杉工芸」展

【銀座新聞ニュース=2020年5月20日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は5月18日から営業を再開した。その第1弾として、6月1日まで3階で九州銘木による「木の匠展 屋久杉工芸展」を開いている。

丸善・日本橋店で6月1日まで開かれている「屋久杉工芸展九州銘木株式会社」に出品されている作品。

屋久杉の「土埋木(どまいぼく)」を使って、仏壇、神棚などを制作している「九州銘木」(鹿児島県鹿児島市東開町3-93、099-267-1366)の「仏像」などを展示販売している。18日から26日まで3階特設会場で、27日から6月1日までは3階ギャラリーで開いている。

ウイキペディアによると、「屋久杉」は屋久島の標高500メートル以上の山地に自生する杉のことで、狭義にはこのうち樹齢1000年以上のものを指し、樹齢1000年未満のものは「小杉(こすぎ)」と呼ばれる。一般に、杉の樹齢は長くても500年程度だが、屋久杉は栄養の少ない花崗岩の島に生えるため、成長が遅く、木目が詰っており、降雨が多く湿度が高いため、樹脂分が多く腐りにくい特徴を持つ。そのため樹木の寿命が長いといわれ、樹齢2000年以上の大木が多い。縄文杉や紀元杉、ウィルソン株が有名である。

1560年頃に大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の改築にあたって屋久島からスギ・ヒノキ材が運ばれたことが同神宮の石碑に記されている。これが記録に残る初の屋久杉の伐採利用とされている。1587年の九州制圧後、石田三成(いしだ・みつなり、1560-1600)が島津義久(しまづ・よしひさ、1533-1611)に命じて、屋久島の木材資源量の調査を行っており、1590年頃に小豆島の大型船11隻が京都方広寺大仏殿造営のため、屋久杉材を大阪へ運んだとされる。

江戸時代に入り、屋久島出身で薩摩藩に仕えていた日蓮宗の僧で儒学者の泊如竹(とまり・じょちく、日章=にっしょう、1570-1655)が屋久島の島民の貧困を目にして、屋久杉の伐採を島津家に献策したとされ、1640年頃から山岳部奥地の本格的な伐採が始まった。

屋久杉は船材・建築材などさまざまな形で製品化されたが、多くは「平木」と呼ばれる屋根材に加工され、出荷された。屋久杉は薩摩藩により専売制のもと、販売が独占された。島民は薩摩藩に年貢として主に平木を納め、またそれ以外のさまざまな産物も平木に換算して石高が計算され、いわば「平木本位制」ともいうべき経済統制がおこなわれた。

また、年貢の割り当て分以外の屋久杉は、米その他の品物と交換される形で薩摩藩に買い上げられ、島民の収益となった。明治時代、1873年の地租改正で島の90%以上が国有地とされ、島民による伐採が制限された。これを不服とし、屋久島側が国有林の払い戻し(返却)を求めて裁判を起こすが敗訴した。しかし、これによる島の経済的困窮が問題となり、1921年に山林局鹿児島大林区署によって「屋久島国有林経営の大綱」が発令された。判決で国有林化が決定し、屋久杉伐採は本格的に開始された。2001年に各種の保護区以外の国有林では伐採可能な林分を切り尽くし、天然屋久杉伐採は終了した。

「津山銘木有馬店」によると、「土埋木」とは「土に埋もれた木」のことで、自生している木ではなく、かつて伐採され、山に放置された材木や台風などによって倒れた材木などを総称して「土埋木」という。屋久島の山には、「屋久杉」が「土埋木」として多く残存している。

屋久島が薩摩藩に編入されると、江戸時代に大規模な伐採がおこなわれた。屋久島は石でできた島のため、土地が肥沃にならず、安定的に米を作ることができず、年貢として米に代わって「屋久杉」が収められていた。

年貢には、短冊形の小板(長さ50センチ×幅10センチ×厚さ5ミリ程度)に加工されて上納された。油分が多く、年輪が緻密で、丈夫な屋久杉の特性を活かして、屋根材として利用するためで、この小板を「平木」と呼んだ。このため、加工に向かない繊維の入り組んだ屋久杉は、伐採後も山に放置された。これがいまも山に放置されている「土埋木」になる。

「杉」は上空に向かって真っ直ぐに伸びる木のことで、ここから「杉」と呼ばれ、屋久杉も杉なので真っ直ぐ伸びる。しかし、1000年もの樹齢の屋久杉は、根っこの部分やコブなど、繊維の入り組んだ、真っ直ぐとは言えない部位が出てくる。これらの屋久杉は平木への加工に向かないため、山に放置された。屋久杉は多くの樹脂を含んでいるため、数百年たった今でも朽ちることなく、樹木の姿をとどめている。

屋久島は島の山林の85%が国有林で、屋久杉を含む原生林について国がほとんどを管理している。また、1982年に屋久杉の伐採は禁止されたが、国有林の中で、一部の地域は土埋木に限り搬出が認められている。そのために、伐採禁止後も、現在でも屋久杉が市場に出回っている。林野庁が主体となり、土埋木の競り市が定期的に鹿児島でおこなわれてきたからだ。しかし、このままのペースで搬出が進むと、限定地域の土埋木が数年で枯渇するとみられ、そのため近年、屋久杉の原木価格が高騰している。

九州銘木は1977年に設立され、数千年の風雪に耐え、豊富な樹脂分を含んだ樹齢1000年以上の屋久杉の「土埋木」を使って、仏壇、神棚などを制作している。

開場時間は11時から18時(最終日は15時)まで。当分の間は、営業時間が11時から18時で、日曜日と祝日は休業する。

「宣言」42日、スタバ、Gゾーン等再開続く、天狗夜も、休業店の前利用も

(写真説明は本文の後にあります)
【銀座新聞ニュース=2020年5月20日】「緊急事態宣言」が出されて42日目となる5月19日は、39県で解除された14日以降の18日、19日と銀座、有楽町を中心に歩いてみた。

NO.1

朝から雨模様の中、東京駅前のみずほ証券の電子掲示板ではアメリカのWTIの原油取引(6月限で19日が最終取引日)が1バレル=32.82ドルと3月16日以来の高値を付けており、こんご、経済が回復に向けて緩やかに動き出す兆しを見せている。

今週から日本橋高島屋が食品売り場以外の営業も再開し、スターバックスも19日から東京都内店では、テイクアウトのみで営業をはじめた。また、19日午後には松屋銀座店が25日から地下1階と地下2階の食品売り場を再開し(11時から19時)、6月1日から銀座店の全館で営業をはじめると発表した。ようやく大型店が再開に向けて動き出したことで、ほかも追随するだろう。

銀座1丁目の高速道路下にあるグローバルダイニングの「G-ゾーン(Zone)銀座」(5店舗で構成)は5月13日から営業を再開しているが、同時に弁当売りも行っている。入り口の外にテーブルを置いて、弁当を売る姿は今までにはなかったもので、やはりまだ客足が限られているからだろう。

NO.2

1丁目の「有楽町皮膚科」という医院では、新型コロナの抗体検査(過去に新型コロナに感染したかどうかを検査する)を1万5000円(ほかに消費税)で行えると1階の入り口で知らせている。ネットで調べると、8800円(税込)程度もあり、今、どこでも売られているマスクと同じで、かなりの価格差がありそうで、果たして受診する人がどれだけいるのだろうか。

また、スターバックスは銀座では、主要な店としてはマロニエ通りと、松屋銀座店の裏通りにあるが、いずれも客が並んでいるわけではないが、客足があまり途切れることもなくあるようだ。テイクアウトのみで営業を続けているマクドナルドと同じ方式なのだが、いずれも買っても店内では飲めないので、銀座にオフィスがある人は別にして、多くは「歩きコーヒー」になるのだろう、と思われた。

NO.3

そのままギンザシックス(GINZA SIX)の方向に歩くと、松屋銀座店や銀座三越のようにシャッターを閉めているわけではなく、店内が見えるので、1階のグランメゾンのショップを見ていると、中に人がいて、何かを整理している感じだった。

自宅にいてもしょうがないので、銀座の店に出てきた人もいるようだが、このグランメゾンでは、店長などから要請されて、在庫を並べて、いつ再開しても対応できるように店内の準備しているのだろうと思えた。

とにかく、この1週間で休業しているかどうかに関係なく、かなりの人が出てきて、店内の売り場を整えて、いつでも販売再開に対応できるようにしている姿が目立った。

東京都から休業要請が出ている業種はともかくとして、自主的に休業している多くの店は、そろそろ休業していることに限界を感じているのだろう。銀座ナインをみたら、かなりの店が再開しているのだが、とにかく客が少なく、スタッフ同士で会話している人たちが多かった。

NO.4

また、銀座ナインの地下で2店舗を展開している「天狗」は「テング酒場」を休業しながら、メインの「旬鮮酒場天狗」はこれまでランチを16時まで行っていたのみだったのを、18日から夜の営業もはじめ、20時まで開いている。

少し笑えるのは3丁目の「さくら水産」の前だ。入り口の前に小さなテーブルがあり、休業しているはずのさくら水産が弁当売りから再開したのかと思ったら、同じビルの別の店が、弁当売りとランチのPRをしていたのだ。休業しているさくら水産の「軒下」を利用したわけだ。

有楽町の交通会館では、美瑛(びえい)町のアンテナショップ「北海道丘のまち美瑛」も営業を再開していた。また、「銀座インズ」でも2階の多くの店が時間短縮しながら営業を続けているが、4月末まで営業していた「いきなり!ステーキ」の休業が目立つ。

NO.5

2丁目の「マロニエゲート銀座1」でも11階と12階のレストランが営業を続けているが、全館休業している中での営業継続だけに、客足がどうなのだろうか(「宣言」は緊急事態宣言が出された後の銀座と周辺の風景を随時、掲載します。宣言は4月7日深夜に発令されましたが、実際に影響を及ぼしたのは8日朝からなので、8日を「初日」としています。また、5月4日に5月31日まで延長され、14日に東京都など8府県を除く39県が「宣言」を解除されましたが、東京都などは4月8日から5月31日まで54日間の戦いになります)。

NO.1
銀座1丁目のグローバルダイニングの「銀座ゾーン」。13日から再開したが、客足が少ないためか、外にテーブルを置いて、弁当売りに取り組んでいる。

NO.2
スターバックスマロニエ通り店も再開したが、テイクアウトのみなので、マクドナルドと同じ方式だが、店内で飲めない割には、それなりに客がいた。

NO.6

NO.3
銀座の並木通り。アパレル店が多い通りで、営業はしているが、車も人通りも少ない。

NO.4
1丁目の有楽町皮膚科では抗体検査1万5000円というお知らせの紙。今やどこでも売られているマスクと同じに見えてしまうのだが。

NO.5
銀座ナインの1階。化粧品やアパレルをはじめ、かなりの店が営業しているが、とにかく客が少ない。

NO.6
銀座ナインの地下の天狗。今週から営業時間を延長した。

NO.7

NO.7
3丁目の休業中のさくら水産の入り口前で、弁当とランチをPRする別の店。たくましさを感じる。

 

丸善丸の内で、パブロ賢次「油絵」展、兄の赤平浩一も

【銀座新聞ニュース=2020年5月20日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ内、03-5288-8881)は5月20日から26日まで4階ギャラリーで「赤平健二改名記念-パブロ賢次油絵展」を開く。

丸善・丸の内本店で5月20日から26日まで開かれる「赤平健二改名記念-パブロ賢次油絵展」に展示される作品。

ヨーロッパ各地を訪れ、「詩情溢れる風景を豊かな色彩と力強いタッチで描」くパブロ賢次(ぱぶろ・けんじ、旧名・赤平健二)さんの作品と兄の赤平浩一(あかひら・こういち)さんの作品も含め、40点余りを展示する。

パブロ賢次さんは1950年茨城県笠間市生まれ、1976年に明治大学法学部を卒業、1978年に早稲田大学第二文学部美術科を卒業、武蔵野美術短期大学に入学、同大が「静止画」を買い上げ、1983年に光風会展で奨励賞、1985年に第8回現代の裸婦店に出品、1986年に第21回昭和会展に招待出品、1992年に個展を開く。

1993年にスペインの「インターナショナル・アーティスト・イン・バルセロナ(INTERNATIONAL ARTISTS IN BARCELONA)’93」に招待出品、1998年に個展を開き、2000年に東京都北区美術展にて優秀賞、2008年にドバイにて個展、2009年に第39回双樹展招待出品にて三浦千三賞、2013年に日本山林美術展に出品している。

赤平浩一さんは1943年生まれ、太平洋美術学校を卒業、1963年に太平洋展に出品、1965年に新構造展に出品、1967年に個展を開き、ヨーロッパに半年間、留学、1968年にアメリカ・メキシコに留学、1971年にアメリカに留学した。

1973年に個展、その後も毎年にように個展を開き、1991年にオーストラリア(ブリスベン)で個展、その後も国内で個展を開き、2006年に丸善・丸の内本店で個展、2009年から2011年まで長谷川画廊で個展を開いている。

期間中、11時から19時までパブロ賢次さんが来場する。

開場時間は10時から18時(最終日は16時)まで。週末は休み。

松屋銀座店、25日に食品売場、6月から全館再開、火曜休業も

【銀座新聞ニュース=2020年5月19日】国内百貨店業界15位の松屋銀座店(中央区銀座3-6-1、03-3567-1211)は5月19日に、25日11時から地下1階と地下2階の食品売り場を再開すると発表した。

4月から休業している松屋銀座店。

また、6月1日から銀座店の全館で営業を再開する。営業再開にあたっては、従業員、来店客への検温などをはじめ、施設、従業員の感染防止策を徹底し、お客には混雑緩和、ソーシャルディスタンス確保、入場制限などの協力をお願いして、安全、安心策に取り組むとしている。

営業時間は11時から19時で、6月23日から毎週火曜日を定休日にする。いずれも当面の間としている。