資生堂「FARO」で銀座資生堂ビル20周年コース、毛蟹、黒トリュフ等

【銀座新聞ニュース=2021年2月25日】国内最大の化粧品メーカーの資生堂(中央区銀座7-5-5、03-3572-5111)が運営する「資生堂パーラー」(中央区銀座8-8-3、東京銀座資生堂ビル、03-5537-6241、0120-471-004)は3月2日から31日までイタリアンレストラン「FARO」(中央区銀座8-8-3、東京銀座資生堂ビル、0120-862-150、03-3572-3911)で「東京銀座資生堂ビル20周年記念コース」を提供する。

イタリアレストラン「FARO(ファロ)」で提供される「東京銀座資生堂ビル20周年記念コース」。左から時計回りにアミューズ、毛ガニのパスタ、魚料理、イカ墨のリゾット、
前菜、肉料理の和牛サーロイン。

2001年3月にオープンした東京銀座資生堂ビルが20周年を迎えることから、日本全国から取り寄せた旬の季節食材や毛ガニ、黒トリュフ、キャビアなども盛り込んだ特別コースを販売する。

記念コースはアミューズが「ニョッコフリットと30カ月熟成カーサ生ハム」、前菜が「鮮魚のカルパッチョ 発酵青トマトとキャビア」、パスタが「ぜいたくにのせた毛ガニのタリオリーニ」と「イカ墨のリゾット 自家製カラスミと共に」、魚料理が「旬の鮮魚 桜の花びらと笹の葉包み焼き」、肉料理が「和牛サーロインのタリアータ フレッシュトマトと黒トリュフを添えて」。

プレデザートが「放牧牛の中洞ミルクを使ったパンナコッタ」、デザートが「デリッツァ アル リモーネ-アマルフィ風レモンケーキ」、プティフールが「ティラミス風チョコレート」となっている。

ほかに、食前酒シャンパーニュ含む6種のワインペアリング(1万5000円、税込、サービス料別)はメインの白と赤は東京銀座資生堂ビルオープン20周年を記念した2001ヴィンテージで用意し、メインの白はイタリア最高峰の「シャルドネ」(100%)といわれる「ガヤ・エ・レイ(Gaja&Rey)」を含んでいる。

また、メインの赤についてイタリアを代表するメルロ「マッセート(Masseto)」も含まれるペアリング(2万円、税込、サービス料別)もある。

ウイキペディアによると、東京銀座資生堂ビルの地は1872(明治5)年に資生堂の創業者、福原有信(1848-1924)がこの地で調剤薬局を開業し、1902(明治35)年には資生堂パーラーの前身となる「ソーダファウンテン」を開設した。

1923(大正12)年の関東大震災後、建築家の前田健二郎(1892-1975)の設計により資生堂パーラーとして再開、1962年に建築家の谷口吉郎(1904-1979)の設計による地下1階、地上9階建の資生堂会館が竣工、1973年に「資生堂パーラービル」に改称するとともに全面リニューアルされたが、1997年には建替えのため解体された。現在の東京銀座資生堂ビルは2000年12月に竣工、2001年3月にオープンした。

一方で、1919(大正8)年に制定された市街地建築物法により、建築物の高さは31メートルに制限され、1963年の建築基準法改正により、容積率による規制に変更されたが、この規制より大きな容積率をもつ多くの建物が既存不適格となり、老朽化しても従前より容積率の低い建物にしか建替えることができなくなった。

1998年に中央区と銀座通連合会との協議により、中央通りをはじめとする主要道路沿いの建築物高さを56メートルとすることを決定し、2000年12月に完成した東京銀座資生堂ビルは、この「地区計画銀座ルール」の適用第1号となった。

設計はスペイン出身の建築家リカルド・ボフィル(Ricardo Bofill Levi、1939年生まれ)さんが担当し、1階と11階の天井が高く、4階から5階にかけては吹き抜けとなっている。工期短縮などを目的とし、地下部分には旧ビルの躯体が再利用され、2種類の制震システムが導入され、第28回東京建築賞優秀賞を受賞した。外壁の赤レンガ色は、当初のリカルドさんのプレゼンテーションとは異なる色彩案が採用され、2002年度のグッドデザイン賞を受賞している。

2日から6日までは、「FESTA DELLA DONNA(フェスタ・デラ・ドンナ、女性の日)」とも呼ばれる「ミモザの日(3月8日)」ウィークとして、来店した女性客にはイタリアのチョコレート(フェレロロシェ)とドルチェ&ガッバーナのフレグランスミニサンプルをプレゼントする。また、6日には女性客にミモザの花を贈る。

営業時間は昼が11時30分から13時30分、夜が17時から18時30分。閉店時間については店に確認を。料金は2万円(税込、サービス料別)、ワインペアリングが1万5000円(同)と2万円(同)。

大丸東京で「SPアワード」受賞品即売、コルク再利用など73種

【銀座新聞ニュース=2021年2月24日】国内百貨店業界第2位の流通グループ、J.フロントリテイリング(中央区八重洲2-1-1)傘下の大丸松坂屋百貨店(江東区木場2-18-11)が運営する大丸東京店(千代田区丸の内1-9-1、03-3212-8011)は2月24日から3月2日まで9階イベントスペースで「ソーシャルプロダクツ・アワード2021受賞作品展示即売会」を開いている。

大丸東京店で2月24日から3月2日まで1週間限定で開かれる「ソーシャルプロダクツ・アワード2021受賞作品展示即売会」に出品されるコルクのストッパースツール。

「ソーシャルプロダクツ・アワード(SPA)」は「人や地球にやさしい商品・サービス(ソーシャルプロダクツ)の普及・推進を通して、持続可能な社会を実現することを目的に、優れたソーシャルプロダクツを表彰する制度」で、2012年に誕生し、受賞商品には「SPAマーク」を付けることができる。新型コロナの影響で、2020年は表彰式を中止し、大賞、優秀賞などを発表した。

2021年は年度テーマが「障害者の生きがいや働きがいにつながる商品・サービス」とし、自由テーマが「生活者が『持続可能な社会』づくりに参加できる商品・サービス」とし、2020年7月1日から10月23日まで募集した。今回も表彰式は中止、2月12日に大賞、優秀賞など73商品を発表し、販売する。

大丸東京店で1週間限定にて受賞商品を展示販売する。年度テーマの「大賞は渋谷でくらし、働く障害のある人が書いた文字や絵を、渋谷でデザインを学ぶ学生がフォント制作やパターン化し、企業が商品化した「シブヤフォント」で、エコバッグや折りたたみ傘などがあり、ドリップバッグコーヒーセット(583円)などを展示する。商品は200円から7万円まである。

自由テーマの大賞は、「もったいない」というきっかけで始まった飲食店からの回収コルクを再資源化し、家具や生活雑貨を作るプロジェクト「TOKYO CORK PROJECT(トウキョウ・コルク・プロジェクト)」で、コルクの煉瓦(1万6775円)やコルクのスツール(4万1800円)などがある。

自由テーマの優秀賞(年度テーマはワインで今回は未販売)は、初心者でも簡単に生ごみから堆肥をつくることができる「LFCコンポスト」ット(4048円)。生活者審査員賞は年度テーマが無脂肪乳という未利用資源に注目して開発されたゴーフル生地の菓子「バターのいとこ」(3枚で864円)、自由テーマが植物の光合成に欠かせないマグネシウム、有機農業の3栄養素である窒素、リン、カリウムが含まれた「洗たくマグちゃん」(1980円)。

特別賞は自由テーマで、健康増進型保険の住友生命「Vitality(バイタリティ」)」とカフェ、焙煎店から出るコーヒーごみを活用して作った有機質の鶏糞肥料「KURAMAE+Coffee(クラマエ・コーヒー)プロジェクト」(300グラム1100円)。

ほかに、ソーシャルプロダクツ賞として米の代わりに食べる「有機カリフラワーライス」(200グラムで498円)など約60種類の商品がある。

営業時間は10時から20時。

インド、新規感染が急減、集団免疫のせい?結婚行進で大音響も(59)

【モハンティ三智江のインド発コロナ観戦記=2021年2月23日】インド全土の新型コロナ感染者数は依然減退、今のところ第2波の兆しもなく、生活はほぼノーマルに戻っている。

ベンガル海の波は思いのほか、荒い。日本海を重ね合わせることも。母郷が恋しくなったとき、この海にどれだけ慰められたろう。

2月15日現在の統計では、累計感染者数は1090万人だが、97%以上が回復し、実質30万人、新規数は1万人前後で推移しており(本日は1万1649人だが、9000人台になることも)、新規の死者数は70人(累計15万6000人)と100人を割り、世界ワースト5カ国(米、ブラジル、インド、英、ロシア)の中では、ダントツの微小さだ。

ワーストトップの西部マハラシュトラ州((Maharashtra、累計206万人)は一昨日、新規感染者数が600人台と、目を疑うような激減ぶりだったが、日曜の統計ということもあったのか、本日4000人台(4092人)に戻り、何日か前の2000人台から倍増した。

既に予想したように、第3波が猛威を振るっている南部ケララ州(Kerala)は、これまで2位だったカルナータカ州(Karnataka、累計94万5000人、死者数1万2265人)を抜いて、累計100万人と、インド第2のミリオン突破州に踊り出た。

新規数も4612人と、マハラシュトラを抜く勢いだが、救いは回復数が新規を上回ることて、死者数は3985人と、マハラシュトラの最悪死者数5万1529人に比べ、極めて少ない。しかし、マハラシュトラが致死率は高いものの、ようやく減少傾向にあるのに比べ、依然懸念される状況だ。インド全土、188の地方では、1週間連続で新規ゼロをマークし、感染抑制はさらに加速化している。

日が落ちて西端の街の灯に彩られた、プリーのベンガル海。郷愁をそそる灯火と、暮れた海の対照の、シルエットが美しい。

世界的に見ても、感染者数は減少しており(ワーストのアメリカの新規数は6万人台てピーク時の4分の1)、ようやくコロナの猛威も、矛先を収めつつあるかと、少しほっとさせられるが、変異種があるので、予断は許さない。

累計感染者数は1000万人突破で、アメリカ(累計2770万人、死者数48万5000人)に次ぐワースト2位のインドのコロナ抑制における成功に、諸外国から謎の目がむけられているが、主な一因として、集団免疫ができている可能性が示唆されている。

首都デリー(Delhi、人口約2000万人)で先月行われた抗体検査では、2万8000人の56%もの被験者に陽性反応が出たことから、全人口のおよそ4分の1の3億人が既に免疫を獲得していると推測されている。南部カルナータカ州の調査でも、6400万人の人口の60%近くが免疫を得たとの可能性が報告されている。

もうひとつは、日頃から赤痢、チフス、マラリアなど各種伝染病の脅威に晒さられている環境下、感染症に強い体質ができているということだ。致死率が世界ワースト5カ国中、低率なのも、同じ理由からだろう。若い世代が大半を占めるインドの人口構成(30歳以下が64%)も有利に働いたと思われる。

インドがかろうじて医療崩壊を免れたことも、医療機関が感染症対策に慣れていて、無菌環境の先進国に比べ、比較的予防体制がしっかりしていたことも挙げられよう。

というわけで、現在はほぼノーマル化、賑わいが戻っている。ただし、国際線は依然停止したままで、外国人観光客が見込めない今、観光産業の打撃は大きく、外国人に人気のビーチリゾート地、西部ゴア(Goa)や、南部ケララは苦戦を強いられている。

当地プリー(Puri)は高名なヒンドゥ聖地で、ローカル巡礼旅行者に人気のため、外国人観光客に頼っているわけでないが、やはり、コロナ前に比べると、激減している。昨年12月から、結婚式需要が高まり、コロナ下抑制されていた挙式欲がどっと堰を切ったように殺到しており、東浜のメインロードは結婚行進のバンドが大音響で行き交い、コロナ下の静けさは失われた。

大気汚染と騒音回帰の当オディシャ州(Odisha)の累計感染者数は33万人を突破しながらも、実質数は800人を切り、死者数も1900人超と少なく、大半の州民の顔からマスクが消えている。なお、インド全土のワクチン接種回数は開始後ひと月で、850万回に達した。

〇コロナ余話/プリントメディアの不振

コロナ禍の悪影響を被って、新聞はじめ紙メディアが業績不振、現に当州では、昨年3月22日から始まったロックダウンが長引いたせいで、長期間新聞配布が中断、解除されても、再購読する読者が減っているらしい。

ひとつには、デジタルメディアの普及で、感染リスクのある紙メディアを有料で取らなくても、スマホで無料のニュースが読めるということがある。

若者の新聞離れは顕著で、現にわが息子も、英字紙は読まない。アマゾン(Amazon)で、洋書はオーダーしても、親が取っている新聞は見向きもしない。古い世代の私は、新聞くらい読めよと毒づきたくもなるが、時代が違うのだから、致し方ない。

インドでは、日本以上にデジタルが普及しているので、若い人は新聞雑誌購読には、ほとんど興味がないようだ。いまや、スマホでただで情報はキャッチできるし、コロナがさらにその傾向を加速させたようだ。プリントメディアに愛着の強い母国と違って、旧世代の私は寂しいばかりだ。

〇極私的動画レビュー/ドラマ「過ぎし日のセレナーデ」

YouTube(ユーチューブ)にアディクト気味の昨今、サーチしていたら、ずっと前から全編見たかったドラマがアップされていた。過去にサーチしたときは、細切れアップで、続きが見たいのに叶わず、断念していたが、奇特な人が3カ月前にアップしてくれていたのだ。

画像はあまりよくなく、著作権に触れないようにテーマ曲(ヤン・スギョンの「愛されてセレナーデ」、情感たっぷりの名曲)を変えたり、画面全体に雪を降らせたり、やや見づらいのだが、全21回の大長編をたった3日で見尽くした。

その名も、「過ぎし日のセレナーデ」は1989年から1990年、フジテレビ(木曜劇場)で放映された、鎌田敏夫脚本の見応えのある重厚なラブストーリー。

主演は田村正和、メインのサブを、高橋恵子と古谷一行が演じ、半世紀に及ぶ女1人を挟んでの異母兄弟の確執を描いたもの。豪華キャスト陣で、見終わったあとには、ずしりと胃もたれがするような手応えある余韻に浸れる。

兄弟の間で繰り広げられる、企業戦争も見ものだが、メインは恋愛で、1人の女を手に入れるために、事業すらもひとつの手段でしかなく、賭けに打って出る男のロマンが胸を打つ。

田村正和はハマり役で、2人の男の間を揺れ動く清楚で美しい、が、限りなく罪な女はまさに、高橋恵子の面目躍如たるところ、古谷一行も熱演だ。

それにしても、1人の女のために、一生を棒に振って落ちぶれて死んでいく男は哀しくロマンチックだ。純粋な男のロマンを、冷酷に踏みにじるのはいつも女だ。女の打算、しかし、それは生殖本能に裏打ちされた、家庭の安寧を選ぶがゆえ、烈しい恋よりも、子のいる家庭で長年培われた情愛を選び取った気持ちは、女だからこそよくわかる。

しかし、美しく、表向きは清楚で罪がないだけに、意識しないところで、すこぶる冷酷だ。やはり最後は、誰にも看取られず、ひっそりと死んでいきたいという主人公に同情が募ってしまう。。

枕際に集う親族の中に、昔烈しく恋し、裏切られた異母兄の妻、初老にしてなお美しい女の顔が。酷薄と、思ってしまうのは私だけだろうか。

男の窮極の恋愛ロマンと、女の打算・裏切り(意図しないだけに罪作りな)の対比を、これほど鮮やかに描いたドラマは希少だ。超お薦め、特選秀逸ドラマ、消されないうちに、鑑賞されることを強くお勧めする。蛇足ながら、震災前の神戸ロケシーンも、一見の価値がある。

(「インド発コロナ観戦記」は「観戦(感染)記」という意味で、インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いており、随時、掲載します。モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。

また、息子はラッパーとしては、インドを代表するスターです。13億人超と中国に次ぐ世界第2位の人口大国、インド政府は2020年3月24日に全28州と直轄領などを対象に、完全封鎖命令を発令し、25日0時から21日間、完全封鎖し、4月14日に5月3日まで延長し、5月1日に17日まで再延長、17日に5月31日まで延長し、31日をもって解除しました。これにより延べ67日間となりました。ただし、5月4日から段階的に制限を緩和しています。

2021年2月16日現在、世界の感染者数は1億0922万7418人、死亡者数が241万0034人、回復者が6142万4060人です。インドは感染者数が1092万5710人、死亡者数が15万5813人、回復者が1063万3025人、アメリカに次いで2位になっています。ちなみにアメリカの感染者数は2769万5000人、死亡者数が48万6332人(回復者は未公表)です。日本は感染者数が41万9762人、死亡者数が7157人、回復者が38万8399人(ダイヤモンド・プリンセス号を含む)。インドの州別の最新の数字の把握が難しく、著者の原稿のままを載せています。

また、インドでは2020年3月25日から4月14日までを「ロックダウン1.0」とし、4月14日から5月3日までを「ロックダウン2.0」、5月1日から17日までを「ロックダウン3.0」、18日から31日を「ロックダウン4.0」、6月1日から6月末まで「アンロックダウン(Unlockdown)1.0」、7月1日から「アンロックダウン2.0」と分類していますが、原稿では日本向けなので、すべてを「ロックダウン/アンロックダウン」と総称しています。

ただし、インド政府は5月30日に感染状況が深刻な封じ込めゾーンについては、6月30日までのロックダウンの延長を決め、著者が住むオディシャ州は独自に6月末までの延長を決め、その後も期限を決めずに延長しています。この政府の延長を「ロックダウン5.0」と分類しています)。

丸善日本橋で濱田庄司、島岡達三ら「益子焼」展、川崎萌、横尾聡ら

【銀座新聞ニュース=2021年2月23日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月24日から3月2日まで3階ギャラリーで「第2回 丸善・益子焼の世界 濱田庄司・島岡達三 2人の人間国宝と現代作家展」を開く。

丸善・日本橋店で2月24日から3月2日まで開かれる「第2回 丸善・益子焼の世界 濱田庄司・島岡達三 2人の人間国宝と現代作家展」のフライヤー。

重要無形文化財保持者(人間国宝)で、民芸運動を推進した陶芸家、濱田庄司(1894-1978)と独自の「縄文象嵌(ぞうがん)」の世界を築いた陶芸家、島岡達三(1919-2007)を中心に、「浜田窯」を継承する濱田庄司の次男、濱田晋作(1929年生まれ)さんや「島岡製陶所」を継承する島岡達三の孫の島岡桂さんをはじめ、栃木県芳賀郡益子町の「益子焼(ましこやき)」の現代の陶芸家18人が作品約2000点を展示販売する。

今回、作品を出品する陶芸家は濱田庄司、濱田晋作さん、濱田晋作さんの次男、濱田友緒さん、島岡桂さんのほか、浅田恵美子さん、「utsuwa-MOKURI(ウツワ・モクリ)」を主宰する栗谷昌克さん、大塚一弘さん、大塚菜緒子さん、大塚雅淑さん。

加守田太郎さん、川崎萌さん、川島郁朗さん、「キマノ陶器」を主宰する木間伸哉さん木間彩さん夫婦、栗原節夫さん。

小林雄一さん、清水秀輝さん、薄田(すすきだ)いとさん、西山奈津さん、萩原芳典さん、福島晋平さん、横尾聡さん。

益子焼は栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器で、江戸時代末期の嘉永年間(1848年から1855年)に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎(1828-1876)が益子に窯を築いたことにより始まったとされている。

同じく出品作家たちを紹介するフライヤー。

益子焼の陶土は、豊富にあるものの、肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ、火鉢、壺などの日用品として制作された。その後、1927年から創作活動を始めた濱田庄司によって花器や茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られた。1959年には、加守田章二(1933-1983)が開いた窯により民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加えられた。1979年には通産省(現経産省)から伝統的工芸品に指定された。

益子焼は砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもち、材料の性質上割れやすく、重いという欠点がある。益子焼のもっとも基本的な釉薬(ゆうやく)は漆黒(しっこく)や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色(あめいろ)を出す鉄釉(てつゆう、てぐすり)で、石材粉や古鉄粉を釉薬にし、犬毛筆で色づけを行うため、重厚な色合いとぼってりとした肌触りに特徴がある。こうした昔ながらの施釉は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。

民芸運動以来、濱田庄司が得意とした杓掛け、流し掛け、掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが知られる。また、信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い。

同じく出品作家たちを紹介するフライヤー。

栃木県益子町観光協会によると、現在、窯元は約250、陶器店は50店あり、春(2021年4月29日から5月5日まで予定されていたが、新型コロナにより中止)と秋に陶器市が開かれる。

益子陶器市は1966年から始まり、例年、春のゴールデンウイークと秋の11月3日前後に開かれている。販売店約50店舗の他、約550のテントが立ち並び、伝統的な益子焼からカップや皿などの日用品、美術品まで販売される。焼物だけでなく、地元農産物や特産品の販売も行われ、春秋あわせて約60万人の人出がある。

ウイキペディアによると、濱田庄司は1894(明治27)年神奈川県橘樹郡高津村(現川崎市)溝ノ口の母の実家で生まれ、東京府立一中(現日比谷高校)を経て、1916(大正5)年に東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科を卒業、在学時は」板谷波山(1872-1963)に師事し、窯業の基礎科学を学び、卒業後は2年先輩の河井寛次郎(1890-1966)と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。この頃、柳宗悦(1889-1961)、富本憲吉(1886-1963)、陶芸家、バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach、1887-1979)の知遇を得る。

1920(大正9)年に英国に帰国するリーチに同行、1922(大正11)年に共同してコーンウォール州(Cornwall)セント・アイヴス(St Ives)に「リーチポタリー(Leach Pottery)」を築窯した。1923(大正12)年にロンドンで個展を開き、1924(大正13)年に帰国し、しばらくは沖縄・壺屋窯などで学び、1930(昭和5)年からそれまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶をはじめた。

ほとんど手轆轤(ろくろ)のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。戦後、1955年2月15日には第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝、工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定され、1964年に紫綬褒章、1968年に文化勲章を受章した。

柳宗悦の流れをうけて民芸運動に熱心であり、1961年の柳の没後は日本民藝館の第2代館長に就任した。1970年の大阪万博の日本民芸館パビリオンの名誉館長を経て、1972年に大阪日本民藝館の初代館長に就任した。1977年には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館した。1978年1月5日に益子にて没。享年83歳。墓所は川崎市の宗隆寺。

島岡達三は1919(大正8)年東京市芝区愛宕町(現東京都港区愛宕)生まれ、1938年(昭和13)年に府立高校(後に都立高等学校、東京都立大学を経て、現在、首都大学東京)在学中に日本民藝館を訪れ、民芸の美に目ざめ、1941(昭和16)年に東京工業大学窯業学科を卒業、1942年に「赤羽工兵隊」に入営、1943年にビルマ(現ミャンマー)に派遣される。

1946年6月に濱田庄司門下となり、1950年に栃木県窯業指導所に勤務、1953年に退職し、益子に住居と窯を構え、1954年に初窯をたいた。1962年に日本民芸館賞を受賞、1968年 夏に米ロングビーチ州立大学、サン・ディエゴ州立大学夏期講座に招かれ、渡米し、ヨーロッパを経て帰国した。1980年に栃木県文化功労章、1994年に日本陶磁協会賞金賞、1996年に民芸陶器(縄文象嵌)で国指定の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、1999年に勲4等旭日小綬章、2007年12月11日没、享年88歳。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。入場は無料。

大丸東京で24K大判、小判、丸の内駅舎の図、総額3億円

【銀座新聞ニュース=2021年2月22日】国内百貨店業界第2位の流通グループ、J.フロントリテイリング(中央区八重洲2-1-1)傘下の大丸松坂屋百貨店(江東区木場2-18-11)が運営する大丸東京店(千代田区丸の内1-9-1、03-3212-8011)は2月24日から3月2日まで1階イベントスペースで「金の祭典」を開く。

大丸東京店で2月24日から3月2日まで開かれる「金の祭典」で販売される24Kの大判。

財務省が2019年に新1万円札を2024年に発行することを決め、その際に新しいデザインを公表した。表は肖像に、第一国立銀行や東京商法会議所、東京株式取引所をはじめ、500以上の企業や経済団体の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」といわれた渋沢栄一(しぶさわ・えいいち、1840-1931)を採用、裏に東京駅の丸の内駅舎(1914=大正3=年12月20日開業)をデザインした。

大丸東京店として初めて開く「金の祭典」では、丸の内駅舎をモチーフにした24金の大判と小判を販売し、コロナの終息を願って「アマビエ」の金も登場する。

大丸によると、資産価値が20年で約6倍となっている地金を手に入れる人が増えており、総点数100点、総額3億円の金を一堂に会し、展示即売する。

同じく販売されるフレームに入っているアマビエ金。

24金製の大判は76ミリX126ミリ、100グラムで税込148万円(専用桐箱入り)、小判は43ミリX73ミリ、30グラムで49万8000円(専用桐箱入り)。「アマビエM5号」はフレームサイズが縦178ミリ×横148ミリ×厚さ17ミリ、16グラムで49万5000円。

また、ペットの写真があれば、オリジナルの金メダルも注文を受けて生産する。直径25ミリ、厚さ1ミリ、重さ9グラムで12万円。

ウイキペディアによると、東京駅は、東京において各方面別に分かれていたターミナル駅の中間を結んで中央停車場を設置する構想から始まり、1914(大正3)年12月20日に開業した。設計は辰野金吾(たつの・きんご、1854-1919)、建設工事は大林組が手がけた。

基礎工事の着手から完成まで6年9カ月(1年1カ月あまりの工事中断があり、それを除くと、実質5年7カ月)かかり、工費が「東京停車場建築工事報告」で集計の時点で282万2005円で、工事中であったステーションホテルの費用約16万円を含めると約298万円に達した。また、駅舎や高架線、プラットホーム、通路などを含めた中央停車場の総工費は407万1210円と集計されている。

2024年に発行される新1万円札の裏に描かれている丸の内駅舎。

その後、中央本線の乗り入れや山手線の環状運転の開始などにより利用客は急速に増加していき、昭和初期にはプラットホームなどの増設工事に着手した。

しかし、大東亜戦争(1941年から1945年)により、すべては完成せず、戦争末期には空襲を受けて丸の内駅舎を焼失した。戦後、丸の内駅舎の復旧が行われるとともに、中止されていた増設工事が再開された。1964年10月1日には東海道新幹線が開通し、新幹線のターミナルともなった。

さらに地下鉄丸ノ内線の乗り入れ、総武・横須賀線の地下ホームの開業、京葉線の乗り入れと地下にもホームの増設が進んだ。1991年6月20日に東北新幹線が開通し、東北・上越方面へのターミナルともなった。2012年10月に、戦災で応急復旧したままであった丸の内駅舎の復原工事が完成している。

「大判」は、広義には16世紀以降の日本において生産された延金(のしきん、のべきん:槌やローラで薄く広げた金塊)の内、楕円形で大型のものをいう。小判が単に「金」と呼ばれるのに対し、大判は特に「黄金」と呼ばれ、大判金(おおばんきん)ともいう。

金貨として規格化されたものは、1588(天正16)年、豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし、1537-1598)の命で京金工の後藤四郎兵衛家(ごとう・しろうべえ、)が製造したのが始まりとされる。

以後、時の権力者の命により1862(文久2)年まで後藤家(京都、後に江戸)が製造し続けた。量目(質量)は、万延年間(1860年)以降に製造されたものを除き、京目10両(44匁=もんめ、約165グラム)と一貫していた計数貨幣であったが、その後は品位(純金含有量)が時代により変化したため、秤量(しょうりょう)貨幣の性質を帯びた。

幣価は「金一枚」であり、小判の通貨単位「両」とは異なり、小判との交換比率は純金量を参考に大判相場が決められた(江戸時代の一時期のみは公定価格が存在した)。

この判金の量目は金一枚(44匁)を標準とするもので、高額の代金の支払い、借金の返済の場合は金屋において判金を購入し支払いに当てるのが当時のしきたりであった。戦国時代頃の金一枚はおよそ米40石から50石に相当したという。

また戦さにおいて功績を挙げた者に対する褒美としても用いられ、江戸時代にもこの伝統が受け継がれ、恩賞、贈答用には金一枚を単位とする大判が用いられた。中でも京都の金細工師である後藤四郎兵衛家に対する信頼は厚く、安土桃山時代には主に豊臣家の、江戸時代には必用ある毎に大判座を開設し、徳川家の大判の鋳造を請け負った。

1874(明治7)年、小判や分・朱単位の金銀貨とともに、大判についても天正大判金を除き、それぞれの含有金銀量に基づいて新貨幣(円・銭・厘)との交換レートが定められた。

小判は、江戸時代に流通した金貨の一種で、金座で用いられた公式な呼称は小判であり「三貨図彙」では「小判」と明記されているが、「金銀図録」や「大日本貨幣史」などの古銭書には小判金(こばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では小判金の名称が広く用いられている。当時の文書には単に金と記されていることが多く、「金百両」などと表記された。

一般的に小判は「金貨」とされ、純金のように見えるものが多いが、実際は金銀合金で、外見上、金色に見えるのは、「色揚げ」と称して表面の銀を薬品と共に加熱して塩化銀として取り去る処理を施した結果である。

江戸幕府を開くに先立ち、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)は大判より小型のものとし、墨書を極印に改め一般流通を想定した通貨を発行する構想を持っており、1601(慶長6)年に徳川家康が後藤家に命じて鋳造させた慶長小判を嚆矢とし、1860(万延元)年発行の万延小判まで10種が発行された。

「アマビエ」は日本に伝わる妖怪で、海中から光をかがやかせるなどの現象を起こし、豊作や疫病などに関する予言をしたとされている。江戸時代後期に作られたとみられる瓦版に類する刷り物に、絵と文が記されており、肥後国(現熊本県)の夜ごとに海に光り物がおこったため、土地の役人がおもむいたところ、「アマビエ」と名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6カ年の間は諸国で豊作がつづく。しかし、同時に疫病が流行するから、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行ったとされる。

瓦版に弘化3(1846)年4月中旬という記載があることから、その年に出版されたものであると考えられている。姿形については添えられた挿し絵(アマビエを目撃したとされる役人がその場で姿を写した「アマビエの絵」が江戸に送られて来ており、その「写し」であると文には書かれている)が存在しているが、本文には「図の如く(原文「づの如く」)」とのみ記載されており、具体的な言葉ではどのようなかたちのものであったかについての特徴は書き留められていない。

アマビエについての記録の類は、この1種類の瓦版でしか確認されていない(熊本県にそのような目撃譚や伝説が伝承されて来た事実も確認されていない)が、類似性の高い内容が記載されている「アマビコ」と呼ばれる妖怪の資料群との比較から、アマビコが誤記された例のひとつではないかという説が、1999年に民俗学者の湯本豪一(ゆもと・こういち)さんによって指摘されている。

アマビエは江戸時代に制作された瓦版のひとつとして、1970年代以降に写真図版つきで書籍などでしばしば紹介されており、2000年代以降は、湯本豪一さんによる他の同趣向の妖怪やアマビコを中心とした新たな資料紹介がつづき、2004年に川崎市市民ミュージアムでおこなわれた「日本の幻獣-未確認生物出現録」という資料展の会期中には、アリエ、アマビエなどのフィギュアがグッズ販売された。

2020年2月から3月にかけて、新型コロナウイルス感染症に関連して「アマビエのイラストを描く」という行為が広く創作活動の場で注目され、「新型コロナ退散の願いを込めた作品」としてアマビエがさまざまに創作のうえで作られる行動(アマビエチャレンジ)が見られた。

また、4月7日からは厚労省が新型コロナウイルス感染症のウエブ向け対策啓発の広報アイコンとしてアマビエのイラストを用い、同じイラストが6月19日から厚労省が配信している「COCOA(ココア)」の画面にも同じものが用いられている。

営業時間は10時から20時。