丸善日本橋で小林加代子、酒井泉、斎藤昭彦「桃の節句」展

【銀座新聞ニュース=2019年2月22日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月24日から3月5日まで3階特設会場で「桃の節句展」を開く。

丸善・日本橋店で2月24日から3月5日まで開かれる「桃の節句展」に出品されている小林加代子さん、酒井泉さん、斎藤昭彦さんの作品。

丸善が「春という季節を寿(ことほ)ぎながら、健康で幸せな毎日が末永く続くことを願う日」として、「桃の節句(もものせっく)」をテーマに3人の作家による作品を展示販売する。

染付けの小林加代子(こばやし・かよこ)さん、陶磁器の酒井泉(さかい・いずみ)さん、「アーリークラフト」(大田区東六郷1-13-10)を主宰する木工作家の斎藤昭彦(さいとう・あきひこ)さんによる「桃の節句」を楽しめる器を出展する。

ウイキペディアなどによると、「節句」とは、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦(こよみ)における、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日をさす。この日には、日本の宮廷において節会(せちえ)と呼ばれる宴会が開かれた。

年間にわたりさまざまな節句があり、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。それが1月7日の「人日(じんじつ)の節句」、3月3日の「上巳(じょうし)の節句」、5月5日の「端午(たんご)の節句」、7月7日の「七夕(たなばた)の節句」、9月9日の「重陽の節句」の5節句(現在では3月3日、5月5日、7月7日は同じ曜日になる)という。

「上巳の節句」が桃の花の季節であることから「桃の節句」と呼ばれる。起源は古来中国の上巳節で、上巳の本来の定義は3月最初の巳の日のことであり、中国において魏(220年から265年)の時代に3月3日に固定化され、中国ではこの日に「はらえ」や「みそぎ」を行う風習がある。

日本でも雑令によってこの日に節会(せちえ、天皇のもとに群臣を集めて行われた公式行事で饗宴を伴う)を開くこととして701(大宝元)年より公式に採用され、内裏(だいり、天皇の私的空間)において曲水の宴(きょくすいのうたげ、庭園で盃が流れてくる間、詩歌を詠む行事)が行われた。

平城天皇(へいぜい・てんのう、774-824)の時代に父・桓武天皇(かんむ・てんのう、737-806)の国忌と近いという理由で廃止されたが、弟の嵯峨天皇(さが・てんのう、786-842)は節会としてではなく、公的な色を薄めた儀式として再開した。

また、曲水の宴は貴族の娯楽としても行われ、民間においては、日本に古来よりあった贖物(あがもの)と呼ばれる人形(ひとがた)に自分の身体をこすり付けて「けがれ」を移し、川などの水辺に流すことで「はらい」を行うという「阿末加津/天児(あまかつ)」などと呼ばれる風習と結びつき、これが後世の流し雛(雛人形)に発展したといわれている。室町時代には「3月3日の儀式」として定着した。

「ひな祭り」ははじまりについては歴史的にはわからず、起源説は複数ある。平安時代の京都で平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていたとする記録がある。当時においても、小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられ、初めは儀式ではなく遊びであり、ひな祭りが「ひなあそび」とも呼ばれた。

一方、平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流しびな」があり、「上巳の節句」としてひな人形は「災厄よけ」の「守りびな」として祀られるようになった。

江戸時代になり、女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。3月の節句にひな祭りを行うようになったのは、天正(1573年から1593年)年間以降と推測されている。

やがて武家社会でも行われるようになり、江戸時代には庶民の人形遊びと節句が結び付けられ、行事となり発展した。その後、紙製の小さな人の形(形代)を作ってそれにけがれを移し、川や海に流して災厄をはらう祭礼になった。この風習は、現在でも「流しびな」として残っている。

江戸時代、ひな祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、1873年の新暦採用が「五節句(=ひな祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。

このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られた際に、祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出たが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされている。

酒井泉さんは1990年に武蔵野美術大学油絵科を卒業、1998年に愛知県立窯業高等技術専門校を修了、愛知県瀬戸市で修業を重ね、東京で主に瀬戸や信楽の土を使って使用陶器を制作している。化粧土や釉薬(ゆうやく)を薄く塗り重ねて、1240度の高温で焼成している。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。

注:「斎藤昭彦」の「斎」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。

TAUで因島物産展、柑橘や村上海賊グッズ等

【銀座新聞ニュース=2019年2月22日】広島県(広島県広島市中区基町10-52、082-228-2111)は2月23日と24日の2日間、アンテナショップ「TAU」(中央区銀座1-6-10、銀座上一ビルディング、03-5579-9952)で「第7回因島観光物産展」を開く。

「たう(TAU)」で開かれる「第7回因島観光物産展」のフライヤー。

広島県と一般社団法人「因島観光協会」(広島県尾道市因島土生町1899-31、土生港湾ビル、0845-26-6111)が共催するイベントで、因島(いんのしま)の「はっさく」や「せとか」などの柑橘をはじめ、柑橘を使ったスイーツ、干しタコ、じゃこ天れもんケーキ、れもん味噌などの瀬戸内の海産物、麦焼酎「島の力」、純米大吟醸「村上水軍」、因島イメージキャラクター「はっさくん」グッズや因島村上海賊グッズなど50品目を超える因島の産品を販売する。

また、広島お好み焼「鯉々(こいこい)」では「因島村上海賊焼き」などを提供している。

ウイキペディアによると、因島は広島県尾道市に属する島で、芸予諸島北東部に位置し、本州尾道から約17キロ南に位置する。島の北東側は布刈瀬戸を挟んで向島、南西側が生口水道を挟んで生口島となり、それぞれ因島大橋、生口橋で結ばれ「しまなみ海道」を構成している。

面積は35.03平方キロ、地質はほぼ花崗岩で、最高峰は奥山390メートル、平地が少なく山と丘陵地で構成され、中央付近を斜めに横切る国道317号によって奥山系と青影山系の2つの山系で2分されている。現在の平地の多くは古来は入江で、近世からの塩田あるいは新田開発により土地が形成された。

島の北側は「安芸地乗り」と呼ばれた古くからの瀬戸内海の主要航路で、この島の南の四国と大島の海峡である来島海峡は瀬戸内海有数の海の難所であったことから、そこを避けるようにこの島近辺に航路ができ、中世においては村上海賊(村上水軍)の拠点として、近世は廻船操業、近代以降は造船業と、船で栄えた島となっている。

平地が極端に狭かったことから稲作は近代に入るまでほぼ行われてなく、古くは製塩が盛んで、近代以降は丘陵地と温暖な気候を活かした商品作物、花や柑橘類の栽培が行われている。旧因島市はこの周辺の島嶼部において唯一市制施行したものであり、この島はインフラストラクチャーが充実し、周辺島々の中核を担っていた。

中世南北朝時代から室町・戦国時代にかけて、この島は因島村上氏の拠点となり、因島に定着した時期は不明で、1449(宝徳元)年には中庄に定住していたことがわかっている。

彼らはこの南である伊予の能島・来島を拠点とした勢力とともに「三島村上氏」と呼ばれ、芸予諸島周辺海域の舟運を取り仕切った海賊衆である。ポルトガルのカトリック司祭で、宣教師、イエズス会士のルイス・フロイス(Luis Frois、1532-1597)の「日本史」には総領家である能島村上氏のことが出てくる。

フロイスは通行する船から金品を強奪する海賊としているが、実態はいわゆる水先案内人であったと現在では考えられている。この周辺は南北に大小さまざまな島が連なり、干満で潮の流れが激変し、さらに伊予側の来島海峡は現在でも最大で10ノット(毎時約18キロ)の急潮と古来からの海の難所であった。

このため、三島村上氏が水先案内人として航行の手助けをし、「警固料」と呼ぶ通行料をとり、彼らのルールに従わないものには武力を用いたとされている。三島村上氏は当初小勢力に過ぎなかったが、次第に勢力を拡大し周辺海域の海運を掌握していく。

その中で因島村上氏は本州側の主要航路である「安芸地乗り」を抑え、航路周辺に海城や見張り台を構築していき、その付近の岩礁には船の係留場所が設けられ、海岸部では平地を埋め立て、兵站および生活拠点を形成していた。そこには海産物の加工場や、造船および修理場もあった。また菩提寺として金蓮寺(島で最初に建立された寺)を建立するなど、文化人としての顔も持ち合わせていた。

因島村上氏は早くから山陽側の大名と結びつき、所領を持っていた。日明貿易の頃には因島村上氏の村上吉資(むらかみ・よしすけ)は備後守護大名である山名氏に取り入り、遣明船の警固衆(護衛)を命じられ、この島の西側は小早川水軍の縄張りであり、小早川氏とも関係を深めていた。

村上吉充(むらかみ・よしみつ)の時代、1555(天文24)年に厳島の戦いの際には小早川水軍とともに毛利氏に加勢し、この勝利により北側の向島の所領を与えられた。現在、因島水軍城に展示されている室町時代末期作の軽武装用鎧「白紫緋糸段威腹巻 附兜眉庇」は吉充が小早川隆景(こばやかわ・たかかげ、1533-1597)より拝領したと伝えられている。以降、毛利氏の下につき(毛利水軍)、防長経略、門司城の戦い、第一次木津川口の戦いなどに従軍した。

営業時間は10時30分から20時(24日は17時)。

鹿児島県が松屋で食材フェア、木下威征が語る

【銀座新聞ニュース=2019年2月21日】鹿児島県(鹿児島県鹿児島市鴨池新町10-1、099-286-2111)は2月20日から26日まで松屋銀座店(中央区銀座3-6-1、03-3567-1211)地下1階と地下2階で「鹿児島フェア」を開いている。

鹿児島県が2月26日まで「鹿児島フェア」を開いている松屋銀座店。

鹿児島県が鹿児島県産食材のブランド力強化を図るために、2月4日から3月3日までホテル雅叙園東京など3店舗で鹿児島県産食材を使ったメニューを提供する「鹿児島フェア」を開いており、20日から26日の7日間、松屋銀座店の地下1階の「銀座 十石」や「アントニオズデリ」など4店舗で弁当などを、地下2階の「喜多福」など4店舗で惣菜などを販売している。

鹿児島県の食材は、県内で生産された農畜産物について、一定の品質基準等をクリアしたものを「かごしまブランド産品」とし、「かごしまブランドマーク」を貼付するなどして出荷販売されている。2018年5月までに19品目25産地が「かごしまブランド」として認証されている。

24日に「鹿児島フェア」でトークショーを開く木下威征さん。

鹿児島黒牛、かごしま黒豚、黒さつま鶏などの畜産物、さつまいも、そら豆などの農産物などの食材、県産品がある。今回はこれらの「かごしまブランド産品」のほかにブリ、 カンパチ、 ウナギなどの水産物、 黒酢や焼酎などの食材や県産品がメニューに使われている。

地下1階では、「銀座 十石」が「鹿児島黒豚とんかつ弁当」(税込864円、単品が648円)、「アントニオズデリ」が「パンチェッタとスナップエンドウのペペロンチーノ」(864円)、「銀座初音」が「黒さつま鶏親子主」(1080円)、「茶懐石 三友居」が「実えんどうと春野菜の酢の物」(972円)を販売している。

また、地下2階では「喜多福」が菜の花漬、「銀座初音」が鹿児島県産黒毛和牛と黒さつま鶏、「日本橋日山」が鹿児島黒豚、「有村屋」がさつま揚げを扱っている。

24日15時30分からフランス料理の「オー・ギャマン・ド・トキオ」(渋谷区恵比寿3-28-3、03-3444-4991)のオーナーシェフの木下威征(きのした・たけまさ)さんによるトークショーを開き、鹿児島県の食材について語る。

営業時間は10時から20時(24日は19時30分)。

乾いた空気感と圧迫感で宇宙飛行士の感覚を共有させた「ファーストマン」(257)

【ケイシーの映画冗報=2019年2月21日】昨年の秋、日本の実業家が、アメリカで計画されている民間宇宙船で月に向かうことを表明しました。

現在、一般公開中の「ファースト・マン」((C)Universal Pictures)。制作費が5900万ドル(約59億円)で、興行収入が1億0274万ドル(約102億7400万円)。

「私は月に行くことを選んだ(I choose to go to the moon)」、実業家氏はこう英語でスピーチをしましたが、実際に月面に降り立つのではなく、月の周回軌道を通過するという計画となっています。

月は、人類が足を踏み入れた地球をのぞく唯一の天体であり、アメリカの12人しか存在していません。その最初の1人となったニール・アームストロング(Neil Armstrong、1930-2012)が、本作「ファースト・マン」(First Man、2018年)の主人公となっています。

1962年、優秀なテストパイロットであったニール・アームストロング(演じるのはライアン・ゴズリング=Ryan Gosling)は有人機による月面着陸をめざすアポロ計画の前段階であるジェミニ計画に参加します。

妻のジャネット(演じるのはクレア・フォイ=Claire Foy)は幼い長女を喪ったばかりで、ニールに支えてほしいと願う反面、かれにパイロットとしての挑戦をやめてほしくないという気持ちももっていました。

友人の宇宙飛行士が事故で亡くなるといったアクシデントのなか、ニールは月着陸を目的とするアポロ11号の船長に選ばれます。全世界が注目するなか、ニールは月への第一歩を踏みしめるのでした。

監督のデイミアン・チャゼル(Damien Chazelle)は、ゴズリングの主演した「ラ・ラ・ランド」(La La Land、2016年)でアカデミー作品賞と監督賞を受けており、本作で2度目のタッグを組んでいます。

前作がカラフルな映像と音楽、そしてキャストたちのダンスや演奏(ゴズリングは吹き替えなしでピアノを弾いて撮影した)といったきらびやかな世界観でしたが、実話をテーマとした本作では、当時の最先端技術であった宇宙開発の、無機質な色彩のとぼしい情景が全編を貫いています。

オープニングでニールが実験飛行中、大事故を寸前で切り抜けたときから、死ととなりあわせのテストパイロットとしての日常を、かわいた空気感で描写していきます。

ニールは映画的なヒーロー然とした人物ではなく、幼い娘の喪失に苦しみ、友人の事故死には強い衝撃を受けます。こうした部分はディティールをそぎ落とした表現となっており、台詞や音楽といった音ではなく、ゴズリングの表情やしぐさ、一瞬の目線の動きなどで観客に迫ってきます。

実在のニールも寡黙な人物で「父は無駄なことをせず、入念に準備し、考え抜いて物事をなし遂げる人だった」(2019年2月3日付「読売新聞」朝刊)と次男のマーク・アームストロング(Mark Armstrong)が語っていますし、チャゼル監督も「自分は何千ものなかのたった1つのピースにすぎないとよく言っていた。彼のそういう考え方に忠実でありたいと思った」(2019年2月1日付「読売新聞」夕刊)と自身のニール像を語っています。

宇宙飛行士という、一見するとはなやかそうな世界が、じつは関わってきた多くの人々のなかに存在していることは、いままで作られてきた宇宙飛行士やロケット飛行を扱った作品で描かれています。

くわえて、本作では、当時の宇宙飛行が決して安全ではなかったことにも触れています。巨大なロケットの、ギリギリのスペースに押し込められる飛行士たち。一度乗りこむと、外部との連絡は音声のみという隔離された状態になります。

発射の轟音と振動が飛行士の全身をつつみこんだかと思うと、ふいにおとずれる無音、無重力の世界。この落差をチャゼル監督は派手さをおさえつつ、圧迫感のある映像を見せることで観客に宇宙飛行士の感覚を共有させてくれまました。

アメリカ国内での宇宙飛行士がどう認識されているか。このことを最後に紹介させていただきます。

現在、アメリカで発行されているパスポートの最後のページに宇宙飛行士の残したこの1文が載っています。
「すべての人は次の世代のために、さらなる高みを目指して努力し続ける責任がある(Every generation has the obligation to free men’s minds for a look at new
worlds…to look out from a higher plateau than the last generation.)」(エリソン・オニズカ=Ellison Onizuka、1946-1986)

オニズカはハワイ出身の日系3世で、アメリカの宇宙計画ではじめてのアジア系宇宙飛行士でしたが、スペースシャトル〈チャレンジャー〉の事故で亡くなった人物です。

かれの物語もいつか、映画として紡がれる日がくると、日本人の1人として願ってしまいます。次回は「アリータ バトル・エンジェル」の予定です(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:ウイキペディアによると、「ジェミニ計画(Project Gemini)」は、アメリカ航空宇宙局(NASA)の2度目の有人宇宙飛行計画で、1961年から1966年にかけ、マーキュリー計画とアポロ計画の間に行われた。ジェミニ宇宙船は2人の宇宙飛行士を宇宙に送る能力があり、1965年から1966年までの間に10人の宇宙飛行士が地球周回低軌道を飛行した。

ジェミニの目標はアポロ計画で必須となる月面着陸のための技術を開発することで、月に行って帰ってくるまでに必要とされる期間の宇宙滞在を達成し、宇宙遊泳によって宇宙船の外に出て活動を行い、ランデブーとドッキングの実行をする際に必要となる軌道操作の技術を切り開いた。これらの新技術が検証されたことにより、アポロ計画では基本試験を行うことなく、月飛行という本来の目的を遂行することができた。

宇宙船はすべてフロリダ州のケープカナベラル空軍基地19番発射施設から打ち上げられた。発射機には大陸間弾道ミサイルを改良した「タイタン2型ロケット」が使用された。また、ヒューストンのジョンソン宇宙センターに新たに建設されたミッション・コントロールセンターが飛行管制に使用されたのもこの計画が初めてだった。

計画期間中にジェミニ9号(1966年6月3日打ち上げ)で搭乗予定だった飛行士を含む3人が、訓練中の航空機事故により死亡している。

「アポロ計画(Apollo program)」はNASAによる人類初の月への有人宇宙飛行計画で、1961年から1972年にかけて実施され、全6回の有人月面着陸に成功した。アポロ計画(特に月面着陸)は、人類が初めてかつ現在のところ唯一、有人宇宙船により地球以外の天体に到達した事業である。

1961年5月、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディ(John Fitzgerald Kennedy、1917-1963)が1960年代中に人間を月に到達させるとの声明を発表した。1969年7月20日に宇宙飛行士ニール・アームストロングとバズ・オルドリン(Buzz Aldrin、1930年生まれ)がアポロ11号で月面に着陸したことにより、その公約は実現される。アポロ計画ではその後5回の月面着陸が行われ、1972年にすべての月飛行計画が終了した。

アポロ計画は、NASAによるマーキュリー計画、ジェミニ計画に続く3度目の有人宇宙飛行計画であり、使用されたアポロ宇宙船やサターンロケットは、後のスカイラブ計画やアポロ・ソユーズテスト計画で使用された。

アポロ計画では、人間を月に送り、安全に帰還させるという当初の目的を達成することにあり、途中で2つの大きな事故があった。1つは、アポロ1号における予行演習中の発射台上での火災事故で、ガス・グリソム(Virgil Ivan “Gus” Grissom、1926-1967)、エドワード・ホワイト(Edward Higgins White 2、1930-1967)、ロジャー・チャフィー(Roger Bruce Chaffee、1935-1967)の3人の飛行士が死亡している。

もう1つは、アポロ13号において、月に向かう軌道上で機械船の酸素タンクが爆発した事故で、これにより月面着陸は断念せざるを得なくなった。乗組員たちは地上の管制官や技術者たちの援助と、何よりも彼ら自身の優れた危機管理能力により、無事に地球に帰還することができた。

アポロ8号で人間は初めて地球以外の天体の周囲を周回し、17号は人類が他の天体の上に降り立った最後の事例となっている。

丸善日本橋で九谷焼の福島武山と一門展

【銀座新聞ニュース=2019年2月21日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月24日から3月5日まで3階ギャラリーで「福島武山一門展」を開く。

丸善・日本橋店で2月24日から3月5日まで開かれる「福島武山一門展」に出品される福島武山さんの作品。

今回は石川県九谷陶磁器商工業協同組合連合会相談役で、日本伝統工芸士会副会長の陶芸家、「九谷焼佐野窯」(赤絵細描)を継承する福島武山(ふくしま・ぶざん)さんとその一門が新作を中心に展示販売する。

福島武山さんの一門としては、娘の有生礼子(ありせ・れいこ)さんをはじめ、河端理恵子(かわばた・りえこ)さん、今川朋美(いまがわ・ともみ)さん、広瀬絵美(ひろせ・えみ)さん、吉田純鼓(よしだ・じゅんこ)さん、堀川十喜(ほりかわ・とうき)さん、林美佳里(はやし・みかり)さん、架谷庸子(はさたに・ようこ)さんが出品する。

日本の色絵陶磁の代表的な「九谷焼(くたにやき)」は350年の歴史があり、「呉須(ごす)」と呼ばれる藍青色で線描きし、「五彩」と呼ばれる赤、黄、緑、紫、紺青の5色で絵の具を厚く盛り上げて塗る彩法で、絵柄は山水、花鳥など絵画的で上絵付けが特徴的とされている。

その中で、「九谷焼解説ボランティア」によると、「九谷焼佐野窯」は1825(天保6)年に斎田伊三郎(晩年は道開、さいた・いさぶろう、1794-1868)により、佐野村(能美市佐野町)に開かれた。斎田伊三郎は上絵付の技能に秀でていて、再興九谷の諸窯で主導的な仕事をしていた。

この窯を築いてから金彩の2度焼きの技法を生み出すなど細密画の「佐野赤絵」を考案し、その意匠は能美九谷や金沢九谷の代表的なものとなり、斎田伊三郎風の佐野赤絵は明治期に輸出品として高い評価を得た。しかし、佐野窯は明治期の輸出九谷のために優品を供給し続けたものの、明治30年代に九谷焼輸出そのものが減少する中、閉窯になったとされている。

また、斎田伊三郎はこの窯を上絵窯として使い、後年にはこの窯とは独立した素地窯(本窯)を築くように陶工たちに働きかけ、素地作りと上絵付を分離する磁器生産の方式を作り出した。佐野村では、村人たちがこれまでかかわったことのない磁器の生産や販売を始めることになり、農村の仕事が増えた。

佐野窯が中心になって、この分業制が佐野村全体の陶業を支え、この窯と斎田伊三郎が佐野村における産業九谷の草分け的役割を果たし、佐野九谷の礎を築いた功績は大きいとしている。これを賞し、1903(明治36)年に斎田伊三郎は九谷陶祖神社の「陶祖」として祀られた。

佐野窯の特色としては金彩の仕上げが挙げられる。茶金地に金描きしたものや、彩釉をしたものを一度焼いてから、また金彩して焼くという2度焼の手法によって金色にさえが出ている。この2度焼の手法は佐野窯独特のものだといわれている。

福島武山さんは1944年石川県生まれ、1963年に石川県立工業高校デザイン科を卒業、1981年に日本伝統工芸展で初入選、1982年に全国伝統的工芸品展で奨励賞、1986年に創造美術展で北華賞(1995年に東京都知事賞)、1987年に日本工芸会正会員、1989年に九谷焼産業デザインコンクールで名古屋通商産業局長賞(1990年に石川県知事賞)、1997年に日本工芸の世界巡回展(5カ年)に国際交流基金より選ばれ、1999年に第23回全国伝統的工芸品公募展で第1席グランプリ内閣総理大臣賞(2000年に伝統工芸士会会長賞)を受賞した。

2002年に第25回伝統九谷焼工芸展で大賞、石川県立美術館買い上げ(2004年に優秀賞、石川県立美術館買い上げ)、2003年に第17回日本陶芸展で入選、2004年に石川県指定無形文化財保持団体九谷焼技術保存会会員、2007年に石川の伝統工芸展で優秀賞、2008年に九谷焼伝統工芸士会会長、2012年に第65回記念創造展で創造美術大賞などを受賞、2015年にエルメス社時計文字盤(駒くらべ)を制作し、スイス・バーゼルで発表し、北陸新幹線の開通に合わせて金沢駅に陶板「恵み」を制作し、2016年に第1回ゴールデン匠賞、石川県文化功労賞も受賞した。

ウイキペディアなどによると、九谷焼は石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器で、大聖寺藩領の九谷村(現石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、加賀藩の命により、藩士の後藤才次郎(ごとう・さいじろう、1634-1704)を佐賀・有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年ころ)、藩の殖産政策として、江沼郡九谷村で開窯したのが始まりとされる。

しかし、約50年後(18世紀初頭頃)突然、廃窯となり、窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っており、この間に焼かれたものは、現在「古九谷(こくたに)」と呼ばれている。

古九谷の廃窯から、約1世紀後の1807年に加賀藩が京都から青木木米(あおき・もくべい、1767-1833)を招き、金沢の春日山(現金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」という。 同じ頃、能美郡の花坂山(現小松市八幡)で、新たな陶石が発見され、今日まで主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、1819年に磁器を、1820年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。

1832年ころに小野窯に陶匠として招かれる、寺井村(現能美市寺井町)生まれの九谷庄三(くたに・しょうざ、1816-1883)は能登の火打谷(現志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見し、後の九谷焼に多大な影響を与え、1840年ころに故郷に戻り、寺井窯を開いた。ヨーロッパから入った顔料を早い時期から取り入れ、彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後にヨーロッパに輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。

明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、1873年のオーストリア・ウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時にヨーロッパの技法も入り込んだ。1872年ころから型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ、1892年ころから、獅子を始めとする置物の制作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり量産化が進んだ。

また、明治維新による失業士族の授産施設として1872年に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平(すなこ・きちへい、生没年不詳)、初代諏訪蘇山(すわ・そざん、1851-1922)らの参加を得て成果を上げ、1876年には「石川県勧業場」と名を改めた。1887年に金沢工業学校(現石川県立工業高校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。

現在、九谷焼は陶器と磁器があり、上絵付けを九谷でしたものを「九谷焼」と呼んでいる。陶器は原料が陶土(粘土)で、温かみがあり、全体に厚くぽってりした感じで、指ではじくと、鈍い音がする。一方の磁器は原料が陶石(石の一種)で、白く堅い感じがあり、薄くて軽くて丈夫で、指ではじくと「チン」と金属質の音がする。

24日と3月5日は福島武山さんが来場し、期間中、毎日、お弟子さんが来場する。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)、入場は無料。